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アヤソフィア(トルコ語:、古典ギリシア語:、現代ギリシア語:)は、トルコのイスタンブルにある博物館〔日高ら(1990)、p.31-66、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<オスマン・トルコ時代のアヤソフィア>〕。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であった〔Müller-Wiener (1977), p. 112.〕が、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり〔"Hagia Sophia ." ArchNet.〕、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館()として使われている〔Magdalino, Paul, et. al. "Istanbul: Buildings, Hagia Sophia" in Grove Art Online. Oxford Art Online. http://www.oxfordartonline.com. accessed 28 February 2010.〕。 東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。 == 概説 == アヤソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された教会堂建築は、ギリシアやトルコなど、かつての東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)領の各地に数多く残されているが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブルのアヤソフィアを指すことが一般的である。元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシア語で「聖なる叡智」を意味し、その中世の発音「アヤ・ソフィア」がトルコ語名「アヤソフィア」の由来である。 教会は三位一体の第二にあたるロゴスに捧げられた〔Janin (1953), p. 471.〕もので、ロゴスが示すところのキリストの受肉日である12月25日に献納された〔。 時に使われるSancta Sophia(聖ソフィア)の名はにちなんだと受け取られるが、「sophia」はラテン語で叡智を意味し、ギリシア語表示のは「神の聖なる叡智の神殿」を表している。 イエス・キリストを象徴する東に至聖所、西に正面玄関を持つ伝統的な平面構成だが、身廊中央部に巨大なドームがあり、これがアヤソフィアの最大の特徴となっている。創建当時は単純な四角形平面であったが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な施設が建て増しされた。内壁は基本的にはオスマン帝国時代に塗られた漆喰仕上げ、大理石仕上げとなっているが、一部が剥がされ、東ローマ帝国時代のモザイク壁画をみることができるようになっている。 巨大なことで知られる特徴的なドームを持ち、ビサンティン建築の典型とみなされ、「建築の歴史を変えた」とも評される。1520年にセビリア大聖堂が完成するまでは世界最大の大聖堂の地位を1000年近く保っていた。現在の建物は532年から537年にかけて東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の命によって建設されたもので、この地に建てられた3代目の建物にあたり、以前の2代はいずれも暴動によって破壊された。デザインはギリシアの物理学者ミレトスのイシドロスと、数学者トラレスのアンテミオスによってなされた。 1985年、「イスタンブルの歴史地区」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アヤソフィア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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