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アラサン・ワタラ
アラサン・ドラマヌ・ワタラ(、1942年1月1日 - 、アラサン・ウワタラとも)は、コートジボワールのテクノクラート、政治家。現在、同国大統領。共和連合(RDR)党首。1990年11月から1993年12月までコートジボワールの首相を務めた〔Profile at IMF website , December 12, 2005.〕〔CV at Ouattara's website .〕。 2010年12月の大統領選挙の決選投票で54%の得票を得て当選したが、同国憲法評議会の裁定により当選を無効とされた。以降4ヶ月にわたり、対立候補で現職だったローラン・バグボと共に自らが正統な大統領であると主張しあう異常事態が続いた。しかし2011年4月11日、ワタラ側の軍の攻撃によってバグボが拘束され、バグボの失脚が確定。同年5月6日に就任宣誓を行い、正式に大統領に就任した。 == 経歴 ==
=== テクノクラートとして === ワタラは、1942年にフランス領西アフリカ(現コートジボワール領)ので生まれたと主張している〔〔。一方、反対派は彼が(現ブルキナファソ領)シンドゥにて生まれたと主張している。この出生地の食い違いが、のちのコートジボワール史に大きな影響を与えることとなる。 彼はエコノミストとしてワシントンDCのIMFに1968年から1973年まで勤務し〔、その後西アフリカ諸国中央銀行職員としてパリで1973年から1975年まで勤務した.〔〔。1975年2月から1982年12月までは西アフリカ諸国中央銀行総裁特別顧問及び調査部門長をつとめ、1983年1月から1984年10月まではオートボルタ(ブルキナファソ)政府の指定ポストであった〔武内進一・編「戦争と平和の間 紛争勃発後のアフリカと国際社会」アジア経済研究所、2008年11月5日 内「第2章 歴史の写し画としての和平プロセス」佐藤章・著 p120〕同行副総裁をつとめた。1984年11月から1988年10月まではIMFに戻ってアフリカ部門の理事を務め、1987年3月には加えてIMF管理理事付顧問となった〔。1988年10月28日、コートジボワール政府の指定ポストであった〔武内進一・編「戦争と平和の間 紛争勃発後のアフリカと国際社会」アジア経済研究所、2008年11月5日 内「第2章 歴史の写し画としての和平プロセス」佐藤章・著 p120〕西アフリカ諸国中央銀行総裁に任命され、12月22日に就任の宣誓をした〔"Basic texts and milestones" , bceao.int.〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アラサン・ワタラ」の詳細全文を読む
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