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アラスカ・ハイウェイ(英:Alaska Highway、またはアラスカン・ハイウェイ(Alaskan Highway)、アラスカン・カナディアン・ハイウェイ(Alaska-Canadian Highway)、アルカン・ハイウェイ(ALCAN Highway))は、第二次世界大戦の間に建設され、カナダを経由してアメリカ合衆国本土とアラスカ州を繋いでいる道路である。ブリティッシュコロンビア州ドーソン・クリークからユーコン準州ホワイトホースを経由してアラスカ州デルタ・ジャンクションに至る。1943年に完工し、延長は2,237 km(1,390 マイル)だったが、経路変更によっていくらか短くなった〔。この道路の歴史的終点はマイルストーン1,422近く〔、デルタ・ジャンクションでリチャードソン・ハイウェイと出会う所であり、フェアバンクスからは南東に約160 km の地点である。リチャードソン・ハイウェイのマイルストーンはバルディーズからカウントが始まっている。アラスカ・ハイウェイは一般に(公式ではなく)南アメリカのアルゼンチンまで延びるパン・アメリカン・ハイウェイの一部だと考えられている。 == 建設 == アラスカに高規格道路を建設する提案は1920年代に始まっていた。ドナルド・マクドナルドが、アメリカ合衆国、カナダおよびロシアに跨る国際道路の夢を描いた。この道路計画を推進するために初めにスリム・ウィリアムズが犬橇で提案された経路を走った。その経路の大半はカナダを通ることになるので、カナダ政府からの支持が重要だった。しかし、カナダ政府はそれによって恩恵を受けるのがユーコン準州の数千もいないような住民に過ぎないために、その道路を建設するために必要な予算を設定することに何の価値も見出さなかった。 しかし、幾つかの経路について検討が加えられた。好まれた経路はブリティッシュコロンビア州プリンスジョージからロッキー山脈トレンチを抜けてユーコン準州ドーソン・シティに至り、西に転じてフェアバンクスに向かうものだった。 真珠湾攻撃で第二次世界大戦の太平洋戦争が始まり、北アメリカ西海岸とアリューシャン列島に対する日本からの脅威が加えられたことで、アメリカとカナダ両国の優先順位に変化が生まれた。1942年2月6日、アラスカ・ハイウェイの建設がアメリカ陸軍に認められ、その5日後にこの計画はアメリカ合衆国議会とフランクリン・ルーズベルト大統領から着手承認を受けた。カナダはアメリカ合衆国が建設費用を全て持ち、カナダ内の道路などの施設が終戦後にカナダ当局に移管されるという条件で、建設を認めることに同意した。 公式の建設開始は1942年3月8日のことであり、数百もの建設機械がノーザン・アルバータ鉄道の優先列車でブリティッシュコロンビア州ドーソンクリークのゼロマイル地点近くに運ばれてからだった。冬季の気候が緩み、作業員は北端と南端から工事を始めることができたので、春の間は建設が加速された。日本がアリューシャン列島のキスカ島とアッツ島に侵入したという報せが届いた後は工事に拍車が駆けられた。9月24日、ブリティッシュコロンビア州とユーコン準州の州境である北緯60度線、コンタクト・クリークと名付けられることになる場所のマイル588地点で、双方向の作業員が出会った。全経路は10月28日に完成し、北端はマイル1202のビーバークリークで繋がれ、11月20日にソルジャーズ・サミットで開通式が行われた。 戦争に対する必要性から最終経路に影響し、アメリカ合衆国からソビエト連邦に武器貸与される航空機を運ぶ北西中継ルートの空軍基地を繋ぐよう意図された。こうしてむしろ実用的でない極端に難しい地形の経路が選ばれた。 この道路は元々第二次世界大戦中のアメリカ陸軍補給路として大半が軍によって建設された。道路の建設には4つの主要な区間があった。アラスカのデルタ・ジャンクションから南東にユーコン準州のビーバークリークで接続、ドーソンクリークから北に、続いて西に進行(先遣グループがノーザン・アルバータ鉄道の駅から凍った沼地にある冬の道を進んだ後で、フォートネルソンから出発した)、ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート鉄道を経由して川を渡った後にホワイトホースから東進と西進という4区間だった。アメリカ陸軍は地元の川舟、鉄道の機関車および当初は南のカリフォルニア州で使う意図があった家屋などあらゆる種類の道具を徴発した。 アラスカ・ハイウェイは1942年10月28日に完工し、11月21日にソルジャーズ・サミットと開通式が行われたが(ラジオで報道されたが正確な外気温は戦時のために検閲で報道されなかった)、この「ハイウェイ」は1943年まで一般車両が通れなかった。当時でも多くの急な坂があり、路面は悪く、丘を上り下りするためにスイッチバックがあり、ガードレールは有ったとしても無いに等しかった。1942年に舟橋や仮設丸木橋を改良した橋は必要な場所のみ鋼製橋に付け替えられた。古い丸木橋がエイシヒック川に架かっているのが今でも見られる。日本が侵略してくる怖れが少なくなり、具体的な部分を改良する為に私企業に契約が行くことはそれ以上無くなった。 ユーコン準州のバーウォッシュ・ランディングとコイダーンの間100マイル (160 km) 程は特に、永久凍土層が融けて傷つきやすい植生に保護されていなかったので、1943年の5月と6月は事実上通行不能だった。その経路を修復する為に丸太道が作られたので、この地域の古い部分には今も丸太が埋っている。現代の建設法では、表面に砂利を盛るか、砂利で植生と地表面を置き換えるかで作られているので、永久凍土層が融けることはない。しかし、バーウォッシュ・ランディングとコイダーンの間はまだ問題があり、1990年代後半に新しい道路が建設されたが、まだ凍上が続いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アラスカ・ハイウェイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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