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アルゲアス朝(、ラテン文字転記:Argeadai)は、古代ギリシアの王朝。紀元前約700年から同310年まで、マケドニアを統治した。 ==概要== 古代ギリシアの神話的な記述によると、アルゲアス朝の起源はギリシャのアルゴスに遡る(アルゲアスの名はこれによる)。 アルゲアス家は、ペロポネソスにあるアルゴスのテメネス家に連なる家系であることを主張し、その伝説上の初代はヘーラクレースの玄孫(孫の孫)であるテメネスである。アイガイでの王宮の発掘で、マノリス・アンドロニコスは、ドーム状の部屋(これを玉座の間であるとする学者もいる。)の中でこの伝承と関連した碑文を発見している。これは、ヘロドトスの『歴史』の記述とも一致しており、ヘロドトスによると、テメネスの一族であるガウアネス、アエロポス、ペルディッカスの三兄弟はアエルゴからイリュリア、更に上マケドニアのレバイアという町に逃れ、そこで王に仕えた。王は、ペルディッカスに何かすごいことが起こるという前兆を信じて、彼らに王の領地から去るように求めた。三兄弟は、マケドニア内の別の地でベルミオ山の麓のミダスの園の近くに移った。彼らはそこを拠点として、次第にその王国を形成した〔ヘロドトス、歴史、8、137〕。 また、ヘロドトスは、ギリシア人から異民族扱いされていたマケドニア王が参加することは、ギリシア人ではないとの理由で関係者から異議を唱えられていたオリンピックについて、マケドニア王アレクサンドロス1世が紀元前504年か500年の競技に参加したという出来事についても述べている。ヘラノディカイは、彼のアルゴス出身との主張を調査した後、マケドニア人は実はギリシア人であると承認し、彼の参加を認めた〔ヘロドトス、歴史、5、22〕。 トゥキディデスの『ペロポネソス戦争史』によると、アルゲアス家はもともとはアルゴス出身のテメネス家であり、高地から下マケドニアに下り、ピエリアからピエリア人を追い出し、パイオニアではペラと海へと達するアクシオス川沿いの細長い土地を手に入れた。彼らはまた、エドノイ族を追放することでミグドニアを、エオルダイア人とアルモピア人を追い出すことでエオルダイアとアルモピアをそれぞれ領地に追加した〔トゥキディデス、ペロポネソス戦争史、2、99〕。 当初は、アルゲアス族の支配者であったが、ピリッポス2世の時代までにその支配を更に拡大し、上マケドニアの全ての国をマケドニアの支配下に納めた。 アルゲアス朝のもっとも著名な人物はピリッポス2世とアレクサンドロス3世(大王)であり、彼らの指導のもとで、マケドニア王国は全ギリシャに対する優越的な地位を確保し、アケメネス朝を打ち倒し、エジプトとインドにまで拡大した。しかし、大王の死後、王位継承者として残されたのは知的障害者であったピリッポス3世と嬰児アレクサンドロス4世であり、彼らは名ばかりの王であった。このため、後継将軍(ディアドコイ)および残された王族たちは互いに勢力争いを始め、その過程で後継将軍の一人で大王の異母姉妹テッサロニケと結婚したカッサンドロスによる簒奪を受け、アルゲアス朝は断絶した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルゲアス朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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