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アルシオン(''Arsion'')は、日本の女子プロレス団体。 == 概要 == 全日本女子プロレスの企画広報部長であった小川宏(ロッシー小川)が、全女の経営難による方針の不満から退社した後、設立した。所属選手として、小川と同じ理由で全女を退団したアジャ・コング、吉田万里子、玉田りえ(現:玉田凛映)、府川由美(現:府川唯未)、レジー・ベネットを確保し、さらにLLPW(現:LLPW-X)から二上美紀子(現:GAMI)、大向美智子を引き抜き、引退していた元JWP女子プロレスのキャンディー奥津をスカウトし、旗揚げする(アジャに関しては団体所属ではなく、ファイティングプロデューサーの肩書きで専属フリー契約)。また、広報担当として元全女の長谷川咲恵が参加している。 当時の女子プロレスにおいては、団体同士で選手の引き抜きを行うことは無かったため、二上と大向をLLPWから引き抜いたことで、LLPWとの間に大きな遺恨を残すことになる(後に、一応和解は成立している)。 旗揚げは1998年2月18日、後楽園ホールでファッションブランド『バッド・ボーイ』とのタイアップで華々しく行われ、札止めの観衆で溢れかえった。選手には野球の背番号ばりにライセンスナンバーが用いられており、選手は自らの番号をイメージ・ナンバーとした。外国人選手が所属しているのが、アルシオンの海外戦略の1つでアメリカからレジー・ベネット、ジェシー・ベネット(バイオニックJ)、メリッサ、テイラー・マティーニ、メキシコからマリーとファビーのアパッチェ姉妹、レディー・メタル、リンダ・スター、プリンセサ・スヘイ、レディ・ペンタゴン、レディ・アパッチェらが次々に来日。また、ディレクTVと独占放映契約を結んだ。 総合格闘技を意識したサブミッションの習得でパンクラスやバトラーツの出稽古でスキルアップする一方、その反面に早くから闘龍門MEXICOと提携してルチャを取り入れるなど、女子プロレスにおける技術革命を掲げていた。この姿勢は「ハイパー・ビジュアル・ファイティング」と称され、団体の売り物となった。新人選手としてAKINOや藤田愛が入団し、グラン浜田の娘である浜田文子も入団するなど、団体として注目される。特に浜田文子はデビュー前から専門誌レディース・ゴングの表紙に起用され、週刊プロレスはビデオ撮影だけのためにメキシコやハワイに連れて行ったほどで、その逸材の売り出しに一役買っていた。 また旗揚げした年より年間2大トーナメントを実施。1998年はトーナメントARS(アルス)優勝のキャンディー奥津と、トーナメントZION(シオン)優勝の吉田万里子で初代クイーン・オブ・アルシオン王座を争い、吉田が王者に輝いた。翌年には大向美智子が2大トーナメントを制覇し、トーナメント女の称号をものにした。タッグ王座をツインスター・オブ・アルシオン、空中殺法の王座スカイハイ・オブ・アルシオンと命名。他団体との差別化を図っていたが、グラウンドを中心とした試合内容は次第に観客が伸び悩み、そのコンセプトとは正反対のラスカチョを導入し、浜田文子&AKINOがアルシオン史上初の流血戦を行った。旗揚げ以来、1年10か月間は流血戦がなかったため、生え抜き選手の流血戦はそれだけで話題になった。 しかし1999年にリング上での所属選手(門恵美子)の死亡事故という不幸もあり、同年にはディレクTVの中継打ち切り、2001年2月にはファイティングプロデューサーであったアジャも個人的な問題で一方的に団体を離れるといった、トラブルが続いた。また、2002年には選手との確執で浜田文子が退団し、2003年には当時のGM大向も退団。そのたびにライオネス飛鳥が助っ人として出場したり、東京ベイNKホールや有明コロシアムのビッグマッチで難関を逃れてきたが、2002年5月の有明コロシアム大会でスポンサーが数百万の未払いをしてから、経営的に資金繰りが悪化。同じ頃から観客動員数も伸び悩み、下降の一途を辿ることになった。 その後、全女を退団した堀田祐美子が数名を引き連れてアルシオンに殴り込み、乗っ取りを果たした2003年6月22日の興行をもって活動を終え、所属選手達は経営権を譲られた堀田と共にAtoZとして再出発することになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルシオン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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