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アルベルティン家またはアルベルティン系()は、ドイツのザクセン地方を支配していたヴェッティン家の分枝。家名は始祖のアルブレヒト勇敢公に由来し、アルブレヒト系と呼ばれることもある。1485年から1918年に至るまで、ザクセンの公爵、選帝侯、王として君臨した。 == 歴史 == ザクセン選帝侯フリードリヒ2世の二人の息子、エルンストとアルブレヒトは父から受け継いだ領土を長く共同で治めており、兄のエルンストがザクセン選帝侯位に就いていた。1485年、兄弟は領土を分割することを決めた()。アルブレヒト3世とその子孫はドレスデンを中心とする独立の世襲領を与えられ、この地域をザクセン公として支配することになった。一方、エルンストとその子孫はエルネスティン系と呼ばれた。 エルンストの長男の選帝侯フリードリヒ3世賢公は宗教改革を支援したが、アルブレヒト3世の長男ゲオルク髭公は自領における宗教改革の進展を断固として阻止しようとした。ゲオルクの後を継いだ弟ハインリヒ敬虔公の治世になって、アルベルティン系ザクセン公国にも宗教改革が導入された。 ハインリヒ敬虔公の長男モーリッツはプロテスタントの信徒であるにもかかわらず、1546年に起こったシュマルカルデン戦争では神聖ローマ皇帝カール5世の側についた。シュマルカルデン同盟に所属する福音派の諸侯たちはエルネスティン系の選帝侯ヨハン・フリードリヒ(フリードリヒ3世の甥)の指導下に置かれており、モーリッツの皇帝派への接近はエルネスティン系に対抗するためであった。シュマルカルデン戦争でプロテスタント側が敗北すると、カール5世はモーリッツの功績に報いるため、ヨハン・フリードリヒから剥奪した選帝侯位とエルネスティン系の領土の大部分をモーリッツに与えた。これ以後、アルベルティン系がヴェッティン家の主流となった。 1652年に選帝侯ヨハン・ゲオルク1世は、自分の死後はアルベルティン系の領土を分割し、下の息子たち、、に分領を与えて独立領邦を創設させることを決定した。1656年10月にヨハン・ゲオルク1世が死去すると、翌1657年4月に所領が分割された。これにより、ザクセン選帝侯領からは以下の3つの公爵領が分立した。 * - 1746年に絶家 * - 1738年に絶家 * - 1718年に絶家 3つの公爵家はいずれも18世紀中葉までに断絶し、その遺領は全て本家のザクセン選帝侯家に回収された。 1697年、選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世はポーランド・リトアニア共和国の王位を獲得(アウグスト2世)し、息子のフリードリヒ・アウグスト2世もポーランド王冠を保持することができた(アウグスト3世)。しかし七年戦争での敗北によってザクセン選帝侯家は政治的重要性を失い、フリードリヒ・アウグスト2世の死後はもはやポーランド王を輩出することは叶わなかった。 フリードリヒ・アウグスト2世の孫のフリードリヒ・アウグスト3世はナポレオン1世の庇護下に入り、そのおかげで1806年にザクセン王に昇格した(フリードリヒ・アウグスト1世)。一方でポーランドにおいても支持基盤を固め、フランス帝国の衛星国のような性格のワルシャワ公国を成立させ、その君主となった(フリデリク・アウグスト1世)。しかし、ワルシャワ公国はナポレオン1世の没落と同時に消滅した。 1918年11月、ドイツ革命によってザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世が退位すると、アルベルティン系はザクセン君主としての地位を失った。 2012年にフリードリヒ・アウグスト3世の孫マリア・エマヌエルとが立て続けに死去したことにより、アルベルティン系の嫡流は断絶した。マリア・エマヌエルが後継者に指名したの(アルベルトの外甥)と、後にアルベルトが後継者に指名した(貴賤結婚から生まれた従甥)がザクセン王家の家長位を争っているが、はアルベルティン系は断絶したという判断を下している〔Streit im sächsischen Königshaus 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルベルティン家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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