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アルメニア・ソビエト社会主義共和国(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、、)は、1920年にアルメニア第一共和国を倒して成立した社会主義国家。1922年にグルジア、アゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を介してソビエト連邦構成共和国となり、1936年にその2国と分離してからも1991年のソ連崩壊まで存在した。アルメニア史においては、それまで農業国であったアルメニアが工業国への転換を果たした時代でもある。ソ連から独立を宣言したのは1991年のことだが、1995年の改正まではソビエト国家の機構を保持したままであった。 == 歴史 == === 共産化 === 1828年から1917年のロシア革命に至るまで、アルメニアはとしてロシア帝国の一部に組み込まれていた。二月革命後、南カフカースでは社会民主主義勢力が台頭し、3国はそれぞれグルジアのメンシェヴィキ、アゼルバイジャンのミュサヴァト党、アルメニアのダシュナク党の指導の下に共同してザカフカース民主連邦共和国を形成、ロシア帝国からの独立を果たした〔北川ほか(2006) 116頁〕。しかし、翌1918年3月のオスマン軍の侵入によって連邦は崩壊し、5月にグルジアはドイツ軍の保護下で、アゼルバイジャンはオスマン軍の影響下で、そしてアルメニアはダシュナク党の指導下でそれぞれ個別に独立を宣言した〔。しかし、こうして独立したアルメニア第一共和国も、オスマン帝国の後を継いだトルコ共和国とので疲弊したところを赤軍に侵攻され、短期間のうちに共産主義勢力へ権力を移譲した。エレヴァンに暫定軍事革命員会が発足したのは、1920年12月3日午前0時のことである(この委員会は5人の共産主義者と2人の左派ダシュナク党員から成っていた)〔中島、バグダサリヤン(2009) 93頁〕。続く1921年から翌年までに1400人の元第一共和国軍将校が逮捕され、リャザンの収容所へ送られた。 1921年、トルコとアルメニア、グルジア、アゼルバイジャンの各ソビエト共和国の間でが結ばれ、これによってトルコはアジャリアを手放す代わりにカルス地方を得ることが定められた〔吉村(2009) 41-42頁〕。この時にトルコ側に割譲された地域の中には、中世アルメニアの首都であったや、アルメニア人の精神的シンボルであるアララト山が含まれていた〔。さらにその後、ロシア・ソビエト連邦共和国民族問題人民委員であったヨシフ・スターリンは、ナヒチェヴァンとナゴルノ・カラバフもアゼルバイジャンの領土とすると決定した。この二つの地域はどちらも、1920年にボリシェヴィキがアルメニアの領土であると保証していたはずのものだった〔〔中島、バグダサリヤン(2009) 153頁〕。 1922年3月12日から1936年12月5日までの間、アルメニアはグルジアとアゼルバイジャンと共にザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成した。この頃のアルメニア革命委員会はサルキス・カシヤンやアヴィス・ヌリジャニャンといった、若く経験の浅い急進的共産主義者によって率いられていた。彼らのとった政策は、国家の厳しい情勢や紛争による人民の疲弊を考慮しない、威圧的な手法によるものだった。ソビエト・アルメニアの歴史家であるバグラット・ボリヤンは1929年に次のように書いている〔アレム(1986) 81頁〕。 地元のチェーカーによって引き起こされたこのような徴発行動とテロに対して、共和国の元指導者たちに率いられたアルメニア人たちは、1921年2月に反乱を起こし、エレバンから共産勢力を一度は追放している〔吉村(2004) 3頁〕。しかし、グルジアを支配していた赤軍が呼び戻され、反乱は鎮圧された〔。 やがてモスクワは、それらの強硬な政策が地元住民との乖離を招いていると気付き、よりアルメニア人の心情に通じた経験豊富な穏健派のアレクサンドル・ミャスニコフを現地に派遣した〔 - 〕。さらに同時期にネップが重なり、アルメニアは相対的に安定した状態となった。この頃のアルメニアはオスマン帝国末期の激動とは対照的な平穏を保ち、人民は中央政府から薬品や食糧などの物資を受け取り、また識字率にも大幅な向上が見られた。一方で、アルメニア使徒教会には共産主義の下で苦難の時代が続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルメニア・ソビエト社会主義共和国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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