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アルル王国は、旧ブルグント王国のあった地域に存在した王国。ブルグント王国とも呼ぶ。933年、ユーラブルグント王国のルドルフ2世がウーゴのキスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)を併合して成立した。 この王国がアルル王国と呼ばれるのはアルルを首都としたためである。またアルルを首都とした後のキスユラブルグント王国もアルル王国と呼ばれることがある。地中海からライン川上流域までを領土とし、2015年までのフランスのプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール、ローヌ=アルプ地域圏、フランシュ=コンテ地域圏、及びスイス西部とおおよそ一致する。独立した王がいたのは1032年までで、その後は神聖ローマ帝国の構成国家となった。 ==カロリング朝ブルグント== 534年にフランク王国がブルグント王国を征服してから、ブルグント王国の領域はフランク王国とそれに続くカロリング帝国に支配された。843年、ルートヴィヒ1世(840年に死去)の3人の息子たちがヴェルダン条約によってカロリング帝国を分割した。ブルグント王国は皇帝ロタール1世が得た中フランク王国の一部となったが、後にブルゴーニュ公国となる地域のみはシャルル禿頭王のものとなった。ルートヴィヒ2世ドイツ人王は東フランク王国を得て、ライン川から東を領土とした。 855年、皇帝ロタール1世はその死の直前に自らの王国を3人の息子に分割して与えた。ブルグントの遺領は次男のロタール2世と末弟のプロヴァンス王シャルルに渡った。869年、ロタール2世も継嗣なく死去すると、叔父であるシャルル禿頭王とルートヴィヒドイツ人王が870年にメルセン条約を結んでロタール2世の領土を分割した。ジュラ山脈北側のユーラブルグント(上ブルグント)はルートヴィヒドイツ人王が得て、残りはシャルル禿頭王のものとなった。875年までにロタール1世の息子たちは全て継嗣無く死に、残る下ブルグントもシャルル禿頭王が手に入れた。 シャルル禿頭王の子、ルイ吃音王が死んだあとの混乱の中、西フランク王国のプロヴァンス公ボソはアルルにキスユラブルグント王国(下ブルグント王国)を成立させた。888年、ルートヴィヒドイツ人王の息子である皇帝シャルル肥満王が死ぬと、ブルグント伯でもあったオセール伯ルドルフ1世が上ブルグント北西部のブルグント伯領内サン・モーリスにおいて、ユーラブルグント王国(上ブルグント)を設立した。 933年、キスユラブルグント(下ブルグント)を支配していたイタリア王ウーゴがユーラブルグント(上ブルグント)のルドルフ2世にキスユラブルグント(下ブルグント)を譲り渡した。ウーゴとルドルフはイタリア王位を巡って争っていたが、ルドルフはイタリアを諦める代わりにキスユラブルグント(下ブルグント)を得たのであった。ルドルフは上下ブルグント王国をまとめてアルル王国とした。937年、ルドルフの後を息子のコンラート平和王が継いだ。その際、ウーゴはブルグントを取り戻そうとしたが、神聖ローマ皇帝オットー1世の介入もあって却下された。993年、コンラートの後を息子のルドルフ3世が継いだルドルフ3世は体が丈夫で無く嫡子誕生が見込めなかった。。1006年、姉ギーゼラの息子が皇帝ハインリヒ2世であったため、アルル王位(ブルグント王位)を神聖ローマ皇帝に相続させるという条約の締結を強いられた。1016年、ルドルフはこの条約を撤回しようとしたが失敗した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルル王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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