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アル=マリク・アル=アジーズ・イマードゥッディーン・アブー・アル=ファトフ・ウスマーン(アラビア語: العزيز Al-Azīz Uthmān、1172年1月7日 - 1198年11月22日〔Maqrizi p. 101〕〔Ibn al-Athir p. 39〕、在位:1193年 - 1198年)は、サラーフッディーン(サラディン)の次男。アル=アフダルの弟。アイユーブ朝の第2代スルタン。 ==生涯== 1172年カイロにて誕生。 1184年、父サラーフッディーンはアジーズを、サラーフッディーンの甥タキアッディーン・ウマルの後見のもとエジプトの統治者に任じている〔Maqrizi p. 75〕。 1187年夏、アジーズはアスカロン攻撃中のシリアの父のもとへ向かい合流している。アジーズはイェルサレム奪還を見届けた後、カイロへ帰還した〔Maqrizi p. 84-5〕。 1193年、父サラーフッディーンが病死すると、父の生前から統治していたカイロを相続した〔〔Ibn al-Athir p. 7〕。しかし、ダマスカスを押さえた兄アフダルやアレッポの弟ザーヒルなど、他の兄弟に父の遺領が分割相続されていたため、事態は流動的であった。アフダルは宰相ナスルッラー・イブン・アル=アシール(歴史家イッズッディーン・イブン・アル=アシールの兄弟)の勧めに従って父の代からの旧臣を冷遇したため、彼らはエジプトのアジーズのもとへ走っている。サラーフッディーンの宰相であったファーディルもその一人である〔〔佐藤 p. 227〕。 1194年、アジーズはシリア侵攻してダマスカスを包囲下に置き、兄アフダルに対して貨幣とフトバに名前を入れる権利(スルタン権の象徴)を求めた〔Maqrizi pp. 102-3〕〔Ibn al-Athir p. 16〕。この挙は周辺のアイユーブ家君侯の危機感を招き、アジーズ・アフダル兄弟の叔父アーディルをはじめ多くの領主がアフダル側についたため〔他にアレッポのザーヒル、ハマーのナースィルッディーン・ムハンマド、ホムスのシールクーフ(サラーフッディーンの叔父シールクーフの同名の孫)、バールベクのアムジャド(サラーフッディーンの兄シャーハンシャーの孫)など(Ibn al-Athir p. 16、Maqrizi p. 105)〕、アジーズは和解へ転じた。それぞれが従来通りの領地を確保することで基本的な合意を見たが、これは既に事実上分裂していたアイユーブ朝の状態を公的に認めることを意味した〔佐藤 pp. 227-8〕。なお、この和解により、アジーズはエジプトに加え聖地イェルサレム及びパレスチナの周辺地域を確保している〔。 翌1195年にもアジーズは再度ダマスカス奪取を目指しシリア侵攻を準備したが、今度は逆にアフダルとアーディルに先手を打たれ自領への逆侵攻を招いてしまう。これにより、アジーズはイェルサレムを失陥したが、ビルバイス攻防では事態が膠着し、アフダルはアーディルの勧めもありアジーズと交渉に入った。アジーズが派遣したファーディルとアフダルらの間で話し合いが持たれ、アジーズはイェルサレム及び周辺地域をアフダルに正式に割譲し、またアーディルがエジプトに居座ることを認めざるを得なかった〔Ibn al-Athir pp. 23-4〕。 1196年、これまでアフダルと協力してきたアーディルが、アジーズに乗り換える方針を固めた。これに伴い、アジーズはアーディルとともにダマスカスに侵攻し、アーディルがダマスカスを奪取するのを助けている。アフダルはダマスカスを退去し、サルハドへ逼塞した〔Ibn al-Athir p. 26〕。アジーズはカイロへ帰還している。 1198年、アレクサンドリアでの狩猟中の落馬事故が原因で、カイロに戻った後死去した〔。墓はカイロのシャーフィイー廟の隣にある〔松田 p. 44〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アル=アジーズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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