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アレクサンドリア砲撃(アレクサンドリアほうげき、''The Bombardment of Alexandria'')は、反乱軍によって支配されたアレクサンドリアの要塞とイギリス地中海艦隊の間で、1882年7月11日から13日にかけて行われた砲撃戦。 == 背景 == イギリスはナポレオン戦争中にエジプトを占領した。しかし、1807年にムハンマド・アリーの軍に破れ撤退した。1869年、フランスによって建設されたスエズ運河が完成し、名ばかりではあるがエジプトの統治者であるヘディーヴ(ムハンマド・アリー朝の君主のこと)のコントロール下におかれた。スエズ運河はイギリスとインドとの間の所要時間を数週間短縮し、エジプトに対するイギリスの関心が増加した。イギリスはスエズ運河会社のヘディーヴ分の株を購入し、運河の共同所有者となった。エジプト人たちが運河の取り扱いを誤ったため、イギリスとフランスの関心はまだ名目上はオスマン帝国の支配下であったエジプトを共同統治領とすることに向いた。エジプト人の愛国心が刺激され、1881年のエジプト軍による反乱の後、1882年2月には政府は完全にウラービー・パシャの支配下に置かれた。反乱は、外国人やコプト正教会の過剰な影響力に対する恨みを表していた。 ウラービーはミリシアを組織してアレクサンドリアに入った。一方、ヨーロッパ列強の外交団はイスタンブルに集ってヘディーヴの復権について議論し、英仏艦隊にアレクサンドリアへ向かうよう命令が出された。エジプト人は兵力の増強と要塞の強化を始めた。イギリス庶民院は、一時的に海峡艦隊から何隻かマルタへ向かわせシーモア提督の指揮下に入れた。 5月20日、イギリス艦インヴィンシブル、フランス艦ラ・ガリソニエールと砲艦4隻からなる英仏艦隊がアレクサンドリアに到着した。6月5日までにさらに6隻がアレクサンドリア港に入り、沖にも艦艇が展開していた。 外国艦隊の存在はウラービー軍と外国人やキリスト教徒との間の緊張を高めた。6月11日、12日、反キリスト教徒による暴動が発生した。この暴動は、ヘディーヴによってウラービーの信用を失わせるために起こされたものであるとか、外国人攻撃を決心していたウラービー軍によって起こされたなどと報道された。Place Mehmet Ali付近で発生した暴動で50人以上のヨーロッパ人と125人のエジプト人が殺された。 これに対するヨーロッパ各国の反応はすばやかった。避難者がアレクサンドリアから逃げると、ヨーロッパ各国の26隻以上の艦船が港内に集結した。7月6日までにエジプト人以外はほぼアレクサンドリアから逃げ出した。守備隊は、シーモアが「作業をやめなければ砲撃する」との最後通牒を発するまで要塞や塔の強化を続けた。同日、フランスのConradはシーモア提督に対し、イギリス軍による砲撃が行われるときはフランス艦隊はポートサイドへ向かい砲撃には参加しないということを伝えた。 最後通牒は無視され、7月11日午前7時に期限を迎えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アレクサンドリア砲撃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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