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アレクサンドル・ヴィノクロフ : ウィキペディア日本語版
アレクサンドル・ヴィノクロフ

アレクサンドル・ヴィノクロフ(Alexander Vinokourov、1973年9月16日-)はカザフスタンペトロパヴル出身の自転車プロロードレース選手。果敢な走りが特徴のオールラウンダーであり、「ヴィノ」の呼称で親しまれている。
2006年のブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝、2012年のロンドンオリンピック金メダルを筆頭に、数々のステージレースで活躍したほか、クラシックレースのリエージュ〜バストーニュ〜リエージュを制するなど多くの勝利を収めた。カザフスタンの英雄的存在として2006年10月には勲二等も授与されている。
== 経歴 ==

=== デビュー~2005年シーズンまで ===
1986年に13歳でカザフスタンのスポーツ学校に入学し、やがてナショナルチームの一員として活躍。1994年広島アジア大会に出場し銀メダル。1996年のアトランタオリンピックにも参加するなどアマチュアサイクリストとしてのキャリアを重ねていく。
そしてその実力が認められ、1998年にカジノでプロデビュー。同年に早くもダンケルク4日間レースの総合優勝やツール・ド・ポローニュでのステージ勝利を達成。続く1999年もドーフィネ・リベレでステージ1勝・総合優勝を果たし、将来の大器として期待を寄せられるようになる。
ドイツテレコムに移籍した2000年はヤン・ウルリッヒのアシストを務めたツール・ド・フランスで総合15位に入り、ブエルタ・ア・エスパーニャでは1勝。シドニーオリンピックのロードレース部門でもウルリッヒに次ぐ2位に入る活躍を見せた。
2001年もドイツ・ツアー総合優勝やツール・ド・スイス1勝などの成績を上げ、ツール・ド・フランスでは総合16位の好成績を収めて実力をアピールした。そして2002年も春のパリ~ニースで総合優勝。ツール・ド・スイスでも1勝するが、同レースの落車で尾骨を骨折していたことがツール・ド・フランス開催の前々日に発覚。ドーピング事件で出場できないウルリッヒに代わるエースとして期待されていたが、無念の出場辞退となった。
その雪辱を期した2003年はキャリアの中で最高の活躍をみせ、春にはパリ〜ニースを連覇し、クラシックのアムステルゴールドレースでも優勝。ツール・ド・スイスでも総合優勝を果たし、好調のまま乗り込んだ ツール・ド・フランスでは初めてのステージ優勝を獲得。さらに一時は総合1位のランス・アームストロングに18秒差まで迫る活躍をみせて最終的に総合3位に入り表彰台に立った。
2004年はパリ〜ニースでステージ3勝をあげたが、前半の遅れが響き総合優勝は逃してしまった。さらにツール・ド・スイスで落車して肩を骨折。 ツール・ド・フランスへの出場を断念する羽目になったが、その後に迎えた世界選手権タイムトライアル部門では3位に入り復活をアピールした。
2005年にはリエージュ〜バストーニュ〜リエージュで優勝。ツール・ド・フランスでも2勝をあげて総合5位に入ったほか、カザフスタン選手権のロードレース部門でも優勝を果たした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アレクサンドル・ヴィノクロフ」の詳細全文を読む



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