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アレシアの戦い(アレシアのたたかい、、)あるいはアレシア包囲戦は、紀元前52年の8月から10月にかけてガリア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた戦闘である。古代ローマにおける包囲戦の中では、最も大規模なものの1つであった。 この戦いの結果、紀元前58年から続いたガリア戦争は実質的に終結し、ガリアはローマの属州となってその版図に組み込まれることとなった。 ==事前の経緯== 紀元前53年の戦いでカエサルに敗北を喫して、指導者であったアッコを処刑されたカルヌテス族を中心として、依然ローマへ敵対する動きは燻っていたが、紀元前52年にカルヌテス族の軍はケナブム(現:オルレアン)を攻撃し、ローマ人を虐殺し、財産を奪い取った〔カエサル「ガリア戦記」7.3〕。 ケナブヌでの事件がガリア全土に知れ渡ると、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスは族内の親ローマ派の反対を押し切って〔アルウェルニ族はローマ軍の同盟部族としてガリア戦争を戦っていた。ウェルキンゲトリクスは親ローマの族長を追放して新族長となった。〕対ローマへ乗り出すことを表明して、アルウェルニ族以外にセノネス族・アウレルキ族・ピクトネス族らが共同でウェルキンゲトリクスにガリア連合軍の最高指揮権を委ねることを決定した。 ウェルキンゲトリクスは未だ去就を定めかねているガリア諸部族に対して決起を呼びかけ、結束を強めるため各部族から人質をとり、命令に従わないものは容赦なく処罰した。このようにしてガリアを糾合したウェルキンゲトリクスは、過去のローマ軍の戦い方を研究しており、正面決戦では太刀打ちできないと考え、徹底した焦土作戦とゲリラ戦を展開した。重要拠点を除いて都市や村を焼き払い、食料や家畜も最低限のもの以外は残さなかった。これによってローマ軍の兵站の破壊を狙ったのである〔カエサル「ガリア戦記」7.14〕。 このガリア総決起に対しカエサルは、アンビオリクスに敗れた紀元前54年の過ち(アドゥアトゥカの戦い)を繰り返さぬよう、冬営中の10個軍団を素早く結集させた。焦土作戦によって兵站を敵地に頼ることが出来ない苦しい状況であったが、カエサルは攻撃を決意した。ローマ軍はまずケナブムを奪取し、次いでアウァリクム(現:ブールジュ)を目標に定めた。アウァリクムはビトゥリゲス族の中心都市で、全ガリアの中心に位置する戦略上の要衝でもあり、また焦土作戦の対象から外れていたため、兵站の策源としても申し分なかった。ウェルキンゲトリクスはアウァリクムも焼き払うつもりであったが、ビトゥリゲス族の「全ガリアで最も美しく、最も肥沃なこの町を焼かないでくれ」という懇願により取りやめられた。4月までにローマ軍はアウァリクムを制圧、カエサルは見せしめのために住民と守備隊の40,000人を皆殺しにした(アウァリクム包囲戦)。 兵站の問題が解決したローマ軍はより積極的な作戦行動に移った。カエサルはティトゥス・ラビエヌスに4個軍団を与えて北部での作戦を委ね、自身は6個軍団を率いてアルウェルニ族の領地である南部を攻撃した。しかし、ウェルキンゲトリクスは粘り強く抵抗し、さらにゲルゴウィアの戦いでカエサルを破った。この予期せぬ敗北に、カエサルはガリア・ナルボネンシス(現在のプロヴァンス一帯)まで後退し、戦力を再編しようとした。撤退の途中でカエサルは、精強なガリア人騎兵に対抗するため、ゲルマン人騎兵を雇い入れた。その際にカエサルはゲルマン騎兵を即戦力とするため、ゲルマン人の貧弱な乗騎とローマ騎兵の健康な乗騎を交換させた〔カエサル「ガリア戦記」7.65〕。 山岳地とアルウェルニ族支配地域を迂回するため、ローマ軍は一度北上してから東方へ転じた。ウェルキンゲトリクスはローマ軍を追尾し、ディジョン近辺で攻撃を仕掛けた。しかし、ゲルマン騎兵とローマ重装歩兵の共同行動によってガリア軍は敗退した〔Christian Goudineau, ''Le Dossier Vercingétorix''、p.306、co-édition Actes Sud/Errance, 2001 ISBN 2-7427-3116-4 〕〔カエサル「ガリア戦記」7.67〕。ガリア軍は逆に追われる立場となり、マンドゥビイ族の都市アレシアへ逃げ込んだ。カエサルはこれを好機と見て包囲に移った。間もなくラビエヌスの軍団も合流し、包囲軍はローマ正規軍12個軍団と、ゲルマン人騎兵、クレタ人投石兵、ヌミディア人軽装歩兵等を合わせて約60,000人となり戦力的な不安は解消された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アレシアの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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