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アレックス・スミルノフ(Alexis Smirnoff、本名:Michel Lamarche、1947年2月9日 - )は、カナダ・ケベック州出身の元プロレスラー。 フランス系カナダ人であるが、キャリア全盛期はロシア系ギミックの悪役レスラーとして活躍し、日本では「流血怪人」の異名で知られた。 == 来歴 == ハイスクール時代に学んだレスリングの経験を下地に、エドワード・カーペンティアのコーチを受け〔、1969年に地元ケベックのモントリオールにてデビュー〔。1970年代に入るとミシェル "ル・ジュスティス" デュボア(''Michel "Le Justice" Dubois'')をリングネームに裁判官ギミックのヒールとして売り出され、ジノ・ブリットやジョー・ルダックと抗争。カーペンティア、マッドドッグ・バション、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークといった大物選手とも対戦してキャリアを積んだ〔。 マイク "ザ・ジャッジ" デュボア(''Mike "The Judge" Dubois'')の英名でカンザスシティやアマリロなどアメリカ合衆国本土にも進出し、1974年2月には全日本プロレスに初来日。1975年下期からはジム・クロケット・ジュニアの運営していたNWAミッドアトランティック地区にて活動、サージェント・ジャック・グレイとフランス系ヒールのタッグチームを組み〔、1976年11月3日に行われたミッドアトランティック・タッグ王座の争奪トーナメントでは、ティム・ウッズ&ディノ・ブラボーと決勝を争った。 1977年、同じくカナダ出身のイワン・コロフのアドバイスにより〔、ロシア人アレックス・スミルノフ(''Alexis Smirnoff'')に変身しサンフランシスコに登場。同地区のエースだったパット・パターソンと抗争を繰り広げ、4月16日にパターソンをロシアン・チェーン・マッチで下し、フラッグシップ・タイトルのUSヘビー級王座を奪取。一躍脚光を浴び、その後もチェーン・デスマッチの名手として各地で活躍することとなる〔。同年9月には、モントリオール時代からの旧知の間柄である大剛鉄之助の招聘で国際プロレスに初参加。以降も同団体の常連外国人となり、再三に渡って来日した(後述)。 1970年代後半からは中西部のCSWやAWAにも参戦。CSWでは1978年1月7日、テッド・デビアスを破りNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を獲得。4月6日にはブルドッグ・ボブ・ブラウンと組んでマイク・ジョージ&スコット・ケーシーからセントラル・ステーツ版のNWA世界タッグ王座を奪取した。AWAではバーン・ガニアの要請でフランス系カナダ人のキャラクターに戻り、セシル "ラ・マシーン" デュボア(''Cecil "La Machine" Dubois'')のリングネームで活動。ビル・ロビンソン、スティーブ・オルソノスキー、ポール・エラリング、フランク・ヒル、ルーファス・ジョーンズ、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼルなどと対戦したが、本意ではなかったため短期間で離脱した〔。 その後はNWAの南部テリトリーを転戦。アラバマのSECWでは1979年5月18日、ロン・ガービンを破りNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を獲得。ジム・バーネットが主宰するジョージアのGCWではロシア系ギミックの先達イワン・コロフと組み、1979年12月7日にジェリー・ブリスコ&オレイ・アンダーソン、1980年4月24日にトニー・アトラス&ケビン・サリバンからNWAジョージア・タッグ王座を奪取。エディ・グラハムが主宰するフロリダのCWFではコロフ&ニコライ・ボルコフとロシア人ユニットを結成し、ダスティ・ローデスやディック・マードック、バグジー・マグロー、ジャック・ブリスコらと抗争した。1981年には古巣のモントリオールにてディノ・ブラボーを破り、同地区のフラッグシップ・タイトルだったインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1982年3月7日にはノースカロライナ州グリーンズボロにてコロフと組み、アメリカ遠征に来ていた全日本プロレスのジャイアント馬場&天龍源一郎と対戦した。 1983年は旧友パット・パターソンの招きでWWFのカリフォルニア地区での興行に出場し、翌1984年からは、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートした全米侵攻サーキットにも参加。フルタイムのレギュラー出場ではなかったものの、かつての主戦場だった西海岸や中西部では重要なタレントとして扱われ、1984年3月23日にはセントルイスのチェッカードームにてティト・サンタナのWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座に挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアント、サージェント・スローター、ミル・マスカラス、ロッキー・ジョンソン、ブラックジャック・マリガン、ジミー・スヌーカ、イワン・プトスキー、ペドロ・モラレスなどトップスターとのシングルマッチも各地で組まれた(アンドレとはディック・マードック&アドリアン・アドニスと共にバトルロイヤルの決勝も争っている〔DVD『WWE アンドレ・ザ・ジャイアント』(2008年、ジェネオン・エンタテインメント)〕)。また、負傷したニコライ・ボルコフの代打としてアイアン・シークの臨時パートナーにも起用されており、シークとの反米タッグでブリティッシュ・ブルドッグスやドリーム・チーム(グレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキ)とも対戦している。 1986年の下期より、AWAに復帰してユーリ・ゴーディエンコ(ポール・デマルコ)とロシア人タッグを結成。マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズのミッドナイト・ロッカーズとAWA世界タッグ王座を争ったが、当時のAWAは興行の規模も選手のレベルも全盛期とは比較にならないほど弱体化しており、話題を呼ぶには至らなかった。 1988年の引退後はカリフォルニア州のフリーモントに居住し、NBAのゴールデンステート・ウォリアーズの広報業務などを担当した他、俳優として映画やテレビにも出演〔。1999年にはモントリオール地区のプロモーターだったジャック・ルージョー・シニアの息子、ジャック・ルージョー・ジュニアが主催したスペシャル・イベントにミシェル・デュボアの名義で出場し、ロニー&ジミー・ガービンとトリオを組んで久々にリングに上がった。近年はフリーモントでパブを経営している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アレックス・スミルノフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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