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アレッサンドロ・ピッチニーニ : ウィキペディア日本語版 | アレッサンドロ・ピッチニーニ
アレッサンドロ・ピッチニーニ(Alessandro Piccinini, 1566年12月30日 - 1638年頃)は、末期ルネサンスから初期バロックにかけてのイタリアのリュート奏者、作曲家。同時代のジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガーとともに、リュート、テオルボの名手として知られた。2巻のリュートおよびキタローネのためのタブラチュア集を残した。 ==生涯== 1566年12月30日にボローニャで生まれる。彼の父親のレオナルド・マリアもリュート奏者であり、アレッサンドロは父からリュートの手ほどきを受けたと思われている。彼の兄弟、ジローラモとフィリッポ、また息子のレオナルド・マリアもリュート奏者であり、ピッチニーニ家はリュート奏者の一族であった。 彼は16歳のときにうけたマントヴァの宮廷からの誘いを断り、フェラーラのエステ家の宮廷に仕えた父に付き従って一家でフェラーラに行っている。雇い主のアルフォンソ2世が1597年に死去した後も、司教ピエトロ・アルドブランディーニに仕え、父とともにフェラーラにとどまっている。この時期のフェラーラ宮廷の音楽家にはルッツァスコ・ルッツァスキがいた。その後1608年にはフェラーラの在教皇庁大使であるエンツォ侯爵に従ってローマに移る。エンツォ邸ではジローラモ・フレスコバルディと同僚であった。1611年にエンツォ公爵がローマを離れるのを期にボローニャに戻ったようである。ピッチニーニの死に関して、詳しい事はわかっていないが、1638年の12月にはすでに死去していた事が書簡などからわかる。 ピッチニーニは彼の同時代人ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガーとともに、ルネサンス末期から初期バロックにかけてのイタリアにおけるリュート、テオルボの名手として今日でも有名である。ピッチニーニの同じボローニャ出身で同世代の作曲家アドリアーノ・バンキエリは「リュート奏者で(ピッチニーニと)並び立つものはいない」と評している。
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