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アレッツォ( )は、イタリア共和国トスカーナ州にある都市で、その周辺地域を含む人口約9万8000人の基礎自治体(コムーネ)。アレッツォ県の県都である。 アルノ川中流に臨み、中世の美術で著名。 == 歴史 == アレッツォの歴史は非常に古く、アレッツォの分離集落であるオルモ(olmo)で発掘されたいわゆる「オルモの頭蓋骨」は旧石器時代のものだと推測されている。また、古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウスもアレッツォがエトルリアの首都の一つであると著書に記している。エトルリア時代のアレッツォはサン・ピエトロの丘(現在のアレッツォ大聖堂)とサン・ドナートの丘(現在のメディチ家城塞)の付近一帯を占めており、周辺地域との交易の中心でもあり、1万から2万の人口であったと推測されている。当時、数多くの神殿や聖堂があり、土器や青銅器、像などが数多く発掘されている。「アレッツォのキメラ」として知られる像や、エウフロニオスの作と推測されるヘーラクレースとテラモーンがアマゾーンと戦っている場面が描かれているクラテール(甕)などがアレッツォ近郊から発掘された物して有名である。 ファイル:Chimera d'arezzo, fi, 04.JPG|アレッツォのキメラ ファイル:Minerva d'arezzo (da chiesa di s. lorenzo), inizi III sec. ac. 03.JPG|アレッツォのミネルヴァ 古代ローマ共和国か勢力を拡大する紀元前4世紀後半には、アレッツォは次第にローマへ併合されていった。ポエニ戦争の頃になると、大量の穀物、武具といった軍需物資を供給するなど、ローマでも重要な地位を占めるとともに経済や農業の発達を見ることができる。帝政ローマにおいても、アレッツォはローマの第3の都市として栄えていた。農業活動の充実と、独特の押印模様のあるアレッツォ陶器(アレッツォ焼き, Arretine ware, Aretium)は100以上の陶器製造工場が存在し、古代世界の至るところに輸出され町の主要な収入源となっていった。 ファイル:Arretine mould.JPG|アレッツォ陶器 キリスト教のローマへの浸透とローマ皇帝による迫害は、アレッツォも例外なく影響を受けることになる。紀元258年に殉教者した聖ロレンツォの記念碑が建てられ、中世に入ると、現存のサン・ロレンツォ教会〔フィレンツェ最古の同名教会とは別。〕が再建立されることになる。また、アレッツォの司教であり今日ではアレッツォの守護聖人となっている聖ドナート(聖ドナトゥス、:it:Donato d'Arezzo,:en:Donatus of Arezzo)は西暦362年(?)8月7日に殉教している。 14世紀頃には、フィレンツェ共和国に併合される。15世紀から16世紀初頭のアレッツォはフィレンツェ支配への反乱とその鎮圧がたびたび発生した。15世紀末には人口も5000人を割り込み、急激な人口減少を招いたが、その一方で建築技術には目覚ましいものがあり、数多くの教会、宮殿、メディチ家城塞などがこの時期に建造されている。 アレッツォの支配はトスカーナ大公国へ移行し、大公レオポルド1世による改革が実施されるが、この改革は貴族社会と町の労働者の反対を呼び起こした。1796年2月1日に発声した地震が経済危機と飢饉をもたらし、民衆蜂起が1799年5月6日から同年10月19日に引き起こされる。 1801年、リュネヴィルの和約でトスカーナ大公国がフランスへ譲渡される。その後、ナポレオン1世のエリザ・ボナパルトが大公位に就くことでトスカーナ大公国は復活しアレッツォも帰属することになる。その後、トスカーナ大公国のサルデーニャ王国へ併合、サルデーニャ王国のイタリア統一によるイタリア王国建国とアレッツォは帰属を換えて行く。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アレッツォ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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