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アロンソ・サンチェス・コエリョ : ウィキペディア日本語版 | アロンソ・サンチェス・コエリョ
アロンソ・サンチェス・コエーリョ (Alonso Sánchez Coello, 1531年/1532年 - 1588年8月8日)は、スペイン・ルネサンス期の肖像画家。 == 生涯 == アロンソ・サンチェス・コエーリョは、10歳前後に父親が死ぬまで、幼年時代をバレンシア近郊のベニファイロ・デ・レス・バルスで過ごした。彼は祖父の家のあるポルトガルで教育を受けた。ポルトガルで暮らした年月と、彼の一族のポルトガル語の姓から、長いこと彼がポルトガル人であると信じられてきた。祖父はポルトガル王ジョアン3世の臣下であり、王は若い画家を1550年頃にフランドル人の画家アントニス・モルのもとへ勉強のため送り出した。彼はアラス司教アントワーヌ・ド・グランヴェルに仕え、モルから絵を学んだ。フランドルにいる間、コエリョはティツィアーノの模写をして過ごしたという。 1552年、コエーリョは師のモルとリスボンへ戻った。モルは神聖ローマ皇帝カール5世から、ポルトガル王家の肖像画を描くよう命令されていた。数年間、コエーリョはポルトガルに残り、王太子ジョアンの宮廷で働いた。ジョアンが若死にすると、コエーリョはジョアンの未亡人フアナ・デ・アウストリア(カール5世の長女)に推薦されて、フェリペ2世の宮廷へ移った。1555年、コエーリョはバリャドリッドの宮廷で働き、1561年にモルがスペインを離れた後、コエーリョが宮廷画家として、師の後継となった。 コエーリョは1560年か1561年に、バリャドリッドでルイサ・レヤルテスと結婚し、7子をもうけた。コエーリョの娘イサベル・サンチェス(1564年-1612年)は画家となった。彼女は父親の工房で学び父を助けた。コエーリョはトレドの宮廷へ移り、最後に1561年にマドリードに落ち着いた。コエーリョは宮殿内のほとんどの宗教画 を描いた。特にエル・エスコリアル修道院がそうである。フェリペ2世は彼を厚遇して、彼の2人の娘たちイサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナの代父とした。画家は王の個人的なお気に入りとして、名誉も富も得て、人生の残りを宮殿で過ごした。彼の弟子はフアン・パントーハ・デ・ラ・クルス、フェリーペ・デ・リアーニョである。ロペ・デ・ベガはコエーリョの作品を賞賛した。コエーリョは1588年8月8日にマドリードで死んだ。
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