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アンティゴノス朝[あんてぃごのすあさ]
アンティゴノス朝(、紀元前306年 - 紀元前168年)は、アレクサンドロス3世(大王)のディアドコイ(後継者)の一人、アンティゴノス1世モノフタルモス(隻眼王)の子孫がギリシャマケドニア地方に築いた、ペラを首都とする王国。 == 歴史 ==
=== 成立 === アンティゴノス1世はアレクサンドロス大王の生前はフリュギア地方(小アジア中西部)の太守であった。アレクサンドロスは短期間のうちにアケメネス朝を打倒したが、間もなくバビロンで没した(紀元前323年)。彼の死後、残された帝国の継承を巡って大王の後継者にならんとする遺臣達(ディアドゴイ)によるディアドコイ戦争(後継者戦争)が起こった。アンティゴノスは大王の死後、帝国全軍総司令官の地位を得て転戦し、自身に敵対するカッパドキア太守エウメネスとその同盟者達をパラエタケネの戦いと続くガビエネの戦いで破った。結果、アンティゴノスは小アジア全土及び北シュリアからイラン高原に至る広大な地域を手中にし、ディアドコイ中最大の勢力となった。紀元前306年には他のディアドゴイに先駆け王位に就きアレクサンドロスの帝国全体を再統一しようとしたが、他のディアドコイ(トラキア王リュシマコス、シリア王セレウコス、マケドニア王カッサンドロス等)は反アンティゴノス同盟を結んで対抗したため、アンティゴノスはイプソスの戦い(紀元前301年)で敗死。遺領は勝者たちによって分割された。 アンティゴノスの息子デメトリオス1世ポリオルケテス(攻城王)はイプソスの戦いで敗走するも生き残り、勢力を挽回すべく転戦を重ねる。カッサンドロスの息子達を倒して紀元前294年にマケドニア王位に就くがリュシマコスとエピロス王ピュロスによって国を追われ、小アジアに侵攻してセレウコスの領土を狙ったが、彼に捕らえられ獄中で死に王位を失った。一時期の混乱の後、ギリシアに侵入したガリア人を撃退したデメトリオスの息子アンティゴノス2世ゴナタスは紀元前276年までにマケドニア王国及びギリシア都市国家の大部分に対する一族の統治を確立することに成功した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンティゴノス朝」の詳細全文を読む
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