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アンドリュー・ジェームズ・ヴァンスライク(Andrew James Van Slyke, 1960年12月21日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州ユーティカ出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。 == 経歴・人物 == のMLBドラフトでセントルイス・カージナルスから1巡目(全体6位)に指名を受け入団。はAAA級で打率.368・出塁率.445・長打率.582の好成績を挙げ、6月17日のシカゴ・カブス戦でメジャーデビュー。同年は打率.262・8本塁打・21盗塁の成績。は打率.244・7本塁打に終わるが、出塁率.354・28盗塁を記録する。は右翼手のポジションに定着し、打率.259・13本塁打・34盗塁を記録してチームの地区優勝に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.091に終わるが、チームはリーグ優勝を果たす。カンザスシティ・ロイヤルズとのワールドシリーズでも打率.091と不振〔で、チームも王手をかけてから3連敗を喫し3勝4敗で敗退した。は打率.270・13本塁打・21盗塁の成績だった。開幕直前の4月1日にトニー・ペーニャとの交換トレードで、他2選手と共にピッツバーグ・パイレーツに移籍。 同年は6月から中堅手に転向。打率.293・21本塁打・82打点・34盗塁・11三塁打を記録し、打撃面で飛躍する。はオールスターゲームに初選出される。打率.288・25本塁打・100打点・30盗塁、リーグトップの15三塁打の成績で、シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を初受賞。以後まで五年連続して同賞を受賞する。1987年頃には「自分がゴールドグラブ賞を獲るためには、3割30本100打点ぐらい打たないと無理だね」と語っていた。というのも、当時のナ・リーグのゴールドグラブ賞は殿堂入りの好打者トニー・グウィンや、強打者のアンドレ・ドーソン、エリック・デービス、デール・マーフィーらが「常連」であったからなのだが、打撃面の成長もあってか1988年から5年連続での受賞に結びついた。また、この年と1992年にはシルバースラッガー賞を受賞している。 当時のパイレーツは左翼手がバリー・ボンズ、右翼手がボビー・ボニーヤと強打者揃いで、その真ん中にあって好守・巧打と俊足を誇り、リーグ最強の外野陣の声もあがった(ただしボンズとは仲が悪く、試合中に口論をしたこともあった)。 から1992年のチームのナ・リーグ東地区3連覇にも貢献するが、チームはこの間一度もワールドシリーズ出場はならなかった。1992年にリーグ最多の199安打を打って、自己最高の打率.324を記録。ボニーヤは限りでニューヨーク・メッツへ、ボンズも1992年限りでサンフランシスコ・ジャイアンツにそれぞれフリーエージェントで移籍し、外野トリオも解体。バンスライク自身も以後は成績が下降し、にはボルチモア・オリオールズに移籍するが、わずか17試合に出場したのみでフィラデルフィア・フィリーズに再度移籍し、その年限りで現役を引退した。 より、パイレーツ時代の監督ジム・リーランドが監督を務めるデトロイト・タイガースで一塁ベースコーチを務める。2006年にはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズにも出場。のオールスターでも一塁ベースコーチを務めた。のシーズン終了後、タイガースを退団した。 のシーズンよりシアトル・マリナーズのコーチを務めていたが、オフに監督のロイド・マクレンドンらと共に解任された。 息子、アンディ・バンスライク・ジュニアとスコット・バンスライクはいずれもマイナーリーガーとなっている。アンディ・ジュニアはカージナルスのマイナー組織でプレイ。スコットはにロサンゼルス・ドジャースでメジャー昇格し、親子メジャーリーガーとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンディ・バンスライク」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Andy Van Slyke 」があります。 スポンサード リンク
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