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アンディー・ラザフ (1895年11月16日~1973年2月3日)は北米の詩人・作曲家・作詞家。 ルイ・アームストロングの真の出世作となった『浮気はやめた』『ハニーサックル・ローズ』〔アームストロングは1935年の自伝『swing that music』で1929年を振り返り、「僕らがニューヨークについて一ヶ月もしないうちに大きなチャンスがやってきた。もう9月くらいだった。それはこんな風にして起こったんだ。 リロイ・スミスはハーレムのレノックス・アヴェニューのコニーズ・インに自分のバンドを持っていた(コニーズがブロードウェイの劇場地区に引っ越すだいぶ前の話だ)。コニーは『ホット・チョコレート』という全員黒人キャストのミュージカルを組織し、プロデュースしてい、それはヒットしてブロードウェイのハドソン劇場で興行していた。彼はハーレムのナイトクラブからキャストを採用していて、最高の黒人パフォーマーたちのうちの上澄みの部分を使っていた。コニーはリロイ・スミスのオーケストラをそのショーに欲しがり、彼らはコニーズ・インから引き揚げ、代わりに良いバンドが必要だった。で、僕らが現れたってわけだ。 僕らは仕事をつかんだ。なんて幸運だ!あんなふうに大都市にやってきて一ヶ月で全ニューヨークのトップスポットのひとつに落ち着くとは。僕らがそこで仕事を始めた後、僕自身は別の大きなブレイクを果たした。コニーは僕に、そのレヴューでリロイ・スミスと共演し、トランペットをフィーチャーした曲を演目の中でやることを依頼してきた。ショーの後にはコニーズ・インの僕のバンドに参加しながらだ。 『ホットチョコレート』の中で僕は「エイント・ミスビヘイヴィン」という歌を披露し、高音域のトランペットソロを演奏した。最初に聴いた時からその歌は僕に語りかけていた。僕はその曲を自由に演奏できるまで練習した。それは「ヒービージービーズ」や「チャイナタウン」や「トレジャーアイランド」のように、自由に遊べてスイングできる歌だった。僕らがその曲を始めたとき、僕は準備万端で、劇場は大騒ぎになった。本当だよ!あの偉大な曲のおかげで僕は全国に知られるようになったんだ。」と書いている。〕で知られる。 ==生涯== ワシントンD.C.で誕生。出生名はアンドリアナマナンテナ・ポール・ラザフィンカリーフォ(Andriamanantena Paul Razafinkarefo)。 父親は、マダガスカル島に17世紀に成立したメリナ人の国メリナ王国の女王の甥だった。 母親はメリナ王国初の黒人アメリカ人宰相ジョン・L・ウォーラーの娘。 マダガスカルにフランス軍が侵略し、ラザフの父は戦死し、妊娠中の母(15歳)はアメリカに亡命した。そして1895年にアンディーを生んだ。〔Zinsser (2006), p. 71-2 〕 ハーレムで育つ。16歳で学校をやめ、ティン・パン・アレー地区のオフィス・ビルのエレベーター・ボーイとなった。1年後、処女作を書き作詞家になった。この時期、タイムズ・スクエアのグレイハウンド・バスの停留場のGaiety Theatre(当時、黒人版ティン・パン・アレーであった)で多くの時間を過ごす。〔''Broadway: An Encyclopedia'' by Ken Bloom. Routledge; 2 edition (November 11, 2003); ISBN 0-415-93704-3 〕 初期の作品は1917-18年に新黒人運動の初の新聞''Voice''で発表され、ユービー・ブレイク、ドン・レッドマン、ジェームズ・P・ジョンソン、ハリー・ブルックス、ファッツ・ウォーラーとの共作だった。 ウォーラーとの共作は *『浮気はやめた』 *『ハニーサックル・ローズ』、 *『ジョイント・イズ・ジャンピン』 *『ウィロー・ツリー』 *『キーピン・アウト・オブ・ミスチーフ・ナウ』 *『(ワット・ディド・アイドゥー・トゥー・ビー・ソー)ブラック・アンド・ブルー』 など。 彼の作品はベニー・グッドマン, ユービー・ブレイク, キャブ・キャロウェイなどが演奏した。 1972年ソングライターの殿堂入り。〔 Songwriters Hall of Fame website 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンディー・ラザフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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