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アントワーヌ・ド・ジュシュー : ウィキペディア日本語版
アントワーヌ・ド・ジュシュー
アントワーヌ・ド・ジュシュー(Antoine de Jussieu、1686年7月6日 - 1758年4月12日)は、フランス医師植物学者である。
==生涯==
リヨンに生まれた。父親は薬剤師で、弟、ベルナール・ド・ジュシューとジョセフ・ド・ジュシュー(Joseph de Jussieu)も植物学者となった。リヨンのイエズス会の学校で学んだ後、モンペリエ大学の、Pierre Magnolに医学植物学を学んだ。1707年に医者の資格をとり、トレヴォー(Trévoux)で医師をした後、1708年にパリに出て、王立植物園ジョゼフ・ピトン・ツルヌフォールのもとで植物学の研究を続けた。1710年にディスナール(Antoine-Tristan Danty d'Isnard)の後を継いで、王立植物園の学芸員となった。1710年にベルナール・ド・ジュシューとともにフランス、スペインポルトガルなどを調査旅行した。1715年に最初の科学的な論文として、自ら種から育てたコーヒーノキに関する論文を書き、後にジュシューはレユニオン島など各地の植民地でコーヒーノキの栽培を試みた。古生物学等の分野でも化石の研究を行い、アンモナイトを動物に分類する論文や先史時代人類の火打ち石の使用についての論文などを書いた。分類学の分野では葉緑素などの光合成色素をもたない真菌類を植から分離することを主張した。
1714年に、フランスの植物学者、ジャック・バルレリエの残した植物銅版画を、『フランス、スペイン、イタリアの植物図』(Icones Plantarum per Galliam, Hispaniam et Italiam observatæ)し、1719年にツルヌフォールの『基礎植物学』(Institutions Rei Herbariae)の3訂版の編集を行った。
1712年に科学アカデミー会員に選ばれ、1718年にはハンス・スローンの推薦で王立協会の会員に選ばれた。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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