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アントワーヌ・ビュノワ : ウィキペディア日本語版
アントワーヌ・ビュノワ

アントワーヌ・ビュノワ(''Antoine Busnois'' あるいは ''Busnoys'' , 1430年頃 - 1492年11月6日)はブルゴーニュ公国作曲家作詞家モテットのような宗教音楽の作曲家として有名だが、15世紀においては最も著名な世俗シャンソンの作者だった。


== 伝記 ==
幼児期についてはほとんど知られていないものの、おそらくベテューヌ近郊(現在のフランスパ=ド=カレー県)の出身だったらしい。1467年までにブルゴーニュ公国の君主であるシャルル突進公に仕官し、ディジョンの礼拝堂で歌手を勤めていた。ビュノワは宮廷歌手や作曲家としての任務に加えて、エーヌ・ヴァン・ギゼゲム(ハイネ・ファン・ヒゼヘム)に同じくブルゴーニュ公国士官でもあった。ビュノワは1475年のノイス(現ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州)攻略に出征し、1477年には、シャルル突進公が戦死したほどの、ロレーヌ公国の首都ナンシーでの攻略から、運好く生還することができた(あるいは出征しなかったらしい)。その後ビュノワは、ブルッヘの聖ソヴール教会St. Sauveurに奉職。同地にて他界するまで、この職務に就いていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アントワーヌ・ビュノワ」の詳細全文を読む



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