翻訳と辞書
Words near each other
・ アントワーヌ・ライヒャ
・ アントワーヌ・ラボアジエ
・ アントワーヌ・ラヴォアジェ
・ アントワーヌ・ラヴォアジエ
・ アントワーヌ・ラヴォワジェ
・ アントワーヌ・ラヴォワジエ
・ アントワーヌ・リッソ
・ アントワーヌ・ルイ
・ アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー
・ アントワーヌ・ワトー
アントワーヌ・ヴァトー
・ アントワーヌ・ヴァロア=フォルティエ
・ アントワーヌ・ヴィールツ
・ アントワーヌ・ヴェシュテル
・ アントワーヌ=アンリ・ジョミニ
・ アントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエ
・ アントワーヌ=オーギュスタン・パルメンティエ
・ アントワーヌ=ジャン・グロ
・ アントワーヌ=ジョゼフ・サンテール
・ アントワーヌ=フィリップ・ド・ラ・トレモイユ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アントワーヌ・ヴァトー : ウィキペディア日本語版
アントワーヌ・ヴァトー

アントワーヌ・ヴァトーAntoine Watteau 発音例 , 1684年10月10日 - 1721年7月18日)は、ロココ時代のフランス画家
18世紀のヨーロッパはロココの時代であり、前世紀のバロック様式に代わって、曲線的、装飾的で甘美なロココ様式が全盛となった。絵画の主題においても歴史画や宗教画から、男女の愛の駆け引きを主題にした風俗画が目立つようになる。
「雅びな宴」(フェート・ギャラント、fêtes galantes)の画家と呼ばれるヴァトーは、若くして亡くなったが、18世紀フランスのロココ様式を代表する画家と見なされている。
== 生涯 ==
1684年、フランス西北部、ベルギー国境に近いヴァランシエンヌに生まれる。この土地は元フランドルに属し、1678年ニメーグ条約でフランス領に編入されたばかりであった。
父親は瓦職人であった。地元で有名だった画家J.-A.ゲランのもとで短期間絵画の勉強をした。
1702年6月7日にゲランが死んでしばらくするとパリに移る。パリではノートル・ダム橋にあった複製絵画の製造業者のもとで、他の徒弟たちとともに宗教画や風俗画のコピーを手がけた。このころヴァトーはレンブラントの弟子ヘリット・ダウの原作にもとづく《読書する女性》の複製画や、《聖ニコラ》を描いたタブローを描いている。
パリではさらにクロード・ジロー、そしてクロード・オードランの下で修業をした。
1717年に完成した代表作『シテール島の巡礼』でアカデミー入会が認められる。1719年の終わりごろ、健康の回復を期してロンドンに渡る。だが1721年、病のため、短い一生を終えた。
ヴァトーの典型的な作品は、『シテール島の巡礼』のような、田園に集い愛を語り合う若い男女の群れを描いたもので、これらは「雅びな宴」の絵と呼ばれた。また彼はイタリア喜劇やオペラに傾倒しており、友人らをモデルにし、喜劇の登場人物として描いた『ジル』(別名をピエロ)、『メズタン』のような作品もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アントワーヌ・ヴァトー」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.