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アンドレ・プレボー(André Prévost)は、フランスの男子テニス選手。1900年のパリ五輪で、同じフランスのジョルジュ・ド・ラ・シャペルと組んで男子ダブルスの銅メダルを獲得した選手である。彼は妻のエレーヌ・プレボーと一緒に、夫婦でパリ五輪に出場した。黎明期の全仏選手権(現在の全仏オープンテニス)でも、1900年に男子シングルス準優勝の成績を残した。 * 注1:“Prevost”というフランス人名の読み方は、日本語では「プレヴォー」が最も多く見られる。 * 注2:彼と同姓同名の別人として、André Prévost (カナダの作曲家、1934年-2001年)もよく知られている。 近代オリンピックの第1回大会は1896年にギリシャ・アテネで始まり、第2回の開催となった1900年パリ五輪では、テニス競技の男子シングルスに(前回アテネ大会と同じく)15名の選手がエントリーした。アンドレ・プレボーは男子シングルス1回戦で、イギリス代表選手のアーサー・ノリスに 4-6, 4-6 のストレートで敗退した。男子ダブルスには8組がエントリーし、プレボーは同じフランスのジョルジュ・ド・ラ・シャペルと組んで銅メダルを獲得した。2人は1回戦で別のフランスペアを破った後、準決勝でマックス・デキュジス(フランス)&バシル・スポールディング・デ・ガーメンディア(アメリカ)組に 2-6, 4-6 で敗れた。最初期の近代オリンピックは、国単位ではなく個人でエントリーしたことから、男子・混合ダブルスでは違う国の選手がペアを組む「混合チーム」もあり、相手組のデキュジスとガーメンディアはフランスとアメリカの混合チームを組んでいた。準決勝敗退の2組による「銅メダル決定戦」は行われず、プレボス&シャペルのフランスペアと、ハロルド・マホニー&アーサー・ノリス組(ともにイギリス代表)が男子ダブルスの銅メダルを獲得した。 パリ五輪が開かれた1900年に、アンドレ・プレボーは全仏選手権の男子シングルス決勝に進んだこともあり、パウル・アイメに敗れて準優勝になった。 最初期の全仏選手権は、試合結果や選手のフルネームに正確な記録が残っていないものが多く、アイメとプレボーの決勝戦のスコアも残存していない。 プレボー夫妻については、夫アンドレと妻エレーヌのいずれも、生没年月日や出生地・死去地などを特定できる伝記的な資料が全く残っていない。 == 外部リンク == * アテネオリンピックテニス・メディアガイド (英語、全146ページのPDFファイル) * 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンドレ・プレボー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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