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アンドレ=ジャック・ガルヌラン(, 1769年1月31日 - 1823年8月13日)はフランス人で、現代的なパラシュートの発明者である(従来のパラシュートは枠を持ったものであったが、ガルヌランはそれを省いた)。水素気球の発明者ジャック・シャルルの弟子であった〔レナード・コットレル『気球の歴史』(大陸書房、1977年)p.94〕。 == 経歴 == パリ生まれ。ナポレオン戦争の初期にイギリス軍に捕まり、オーストリア軍に引き渡されてハンガリーのブダで3年間の捕虜生活を送る。その間に、脱走の目的でパラシュートを構想した〔。 解放されると、熱気球の飛行に熱中した。1790年に自ら製作した熱気球で飛行。1797年10月22日、パリにて、絹製のパラシュートを使い約900mの高度にある気球から初めて飛び降りた。着地時には衝撃があったものの、当人は無傷であった。ただし彼のパラシュートは頂部に穴がなかったので、気流の流れによって危険な横揺れをおこした。当然、着地した彼は気分が悪かったという。天文学者ジェローム・ラランドの助言により改良が行われた〔コットレル『気球の歴史』p.96〕。妻のジャンヌ=ジュヌヴィエーヴ・ガルヌランや姪のエリザも落下傘での降下を体験した〔コットレル『気球の歴史』p.97〕。ジャンヌはパラシュート降下をした史上初の女性である。 ガルヌラン夫婦はアミアンの和約による平和期(1802年)にイングランドに赴き、ロンドンでパラシュート降下を実演している。この行為は以下のようなバラッドに詠われた。 同年7月5日には水彩画家エドワード・H・ロッカー(Edward Hawke Locker)を同乗させて飛行。しかし仏・英関係が悪化したため帰国した。ガルヌランは気球による長距離飛行も行なっている。1803年の10月3日から4日にかけ、モスクワ=ポローヴァ(Polova)間の300kmを飛行。1807年11月22日から翌日にかけてはパリからクラウゼン(Clausen;ルクセンブルクの一部)の395kmを飛行した。その後パリで新しい気球を作っている際、現場の事故で(梁に打たれて)死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンドレ=ジャック・ガルヌラン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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