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アンナ・アフマートヴァ : ウィキペディア日本語版 | アンナ・アフマートヴァ
アンナ・アンドレエヴナ・アフマートヴァ(1889年6月23日(ユリウス暦6月11日) - 1966年3月5日、、 ''Ánna Andríjivna Achmátova (Hórenko)'')、本名アンナ・アンドレーイェヴナ・ゴレーンコ()は、ロシアの詩人。オシップ・マンデリシュタームとともに20世紀前半から中葉のロシアを代表する詩人である。19世紀末からロシア詩壇の主流となっていた象徴主義に依らず、厳密な言語の使用を提唱したアクメイズムと呼ばれる文学運動の主導者としてサンクトペテルブルクを中心に活動した。アフマートヴァの作品は初期の叙情的な短詩から後期のスターリン政権下で圧制に喘ぐすべての人を代弁した普遍的な作品まで幅広く、特に後者にはスターリンによる大粛清の犠牲者に奉げたため長らく封印された連作長詩『レクイエム』などがある。 == 生涯 ==
=== 前半生 === 1889年6月23日、アンナ・アフマートヴァはオデッサ近郊のボリショイ・フォンタン(Bolshoy Fontan)で、海軍技師であった父アンドレイ・ゴレーンコと母インナ・エラーゾヴナのあいだに生まれた。5人兄弟で、兄と姉、弟と妹がそれぞれ一人ずついた。アンナが生まれた翌年、家族は父の退官を機にサンクトペテルブルクへ移住するが、1905年に両親が離婚して厳格な父のもとで過ごした彼女の幼少期はあまり幸福なものではなかった。はじめツァールスコエ・セローで、のちにキエフとサンクトペテルブルクのスモーリヌイ修道院で教育を受ける。ラシーヌ、プーシキン、バラトゥインスキー(Evgeny Baratynsky)といった詩人の影響を受けながらアンナが詩を書き始めたのは11歳のころである。父アンドレイは娘の詩をデカダンの潮流に染まったものとみなして嫌悪しており、彼女の詩に自分の姓が印刷されるのを芳しくないことと考えていたため、彼女は曾祖母の姓アフマートヴァ(タタール人の伝説上の王女の名でもある)をペンネームとして用いることとした。 1910年4月25日、アフマートヴァは3歳年上でアフマートヴァと同じくアクメイストの詩人であるニコライ・グミリョーフ(Nikolay Gumilyov)と結婚した。二人が知り合ったのは1903年、ツァールスコエ・セローへ通う中学生時代のことである。どことなくあどけなさの残るグミリョーフの熱烈な求婚をアンナははじめのうち本気にせず毎度斥けていたため、絶望したグミリョーフが自殺未遂まで引き起し、アンナが折れる形で結婚に至ったのである。新婚旅行で訪れたパリでは、アメデオ・モディリアーニと知り合って16枚のデッサンのモデルをつとめたが、ロシア革命前後の混乱により2枚を残して散逸した。新婚旅行から戻ってまもなくグミリョーフはアンナを残して一人アフリカへ旅立つ。置き去りにされたアンナは、恋人を失う悲哀をテーマとし、のちに第一詩集『夕べ』に収録されることとなる詩の制作に没頭することとなる。
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