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アンバガイ・カン アンバガイ・カン(Ambaγai Qan、生没年不詳)は、モンゴル部ボルジギン氏モンゴル国の第2代カン。セングン・ビルゲの子。祖父のチャラカイ・リンクゥに始まるネグス氏に代わり、タイチウト氏を創始し、その祖となる。『元朝秘史』ではアンバガイ・カハン(俺巴孩合罕、Ambaγai Qahan)、『集史』ではハンバカーイー・カーアーン(Hambaqāī qā'ān)、『元史』では咸補海罕と表記。 ==生涯== 又従兄弟のカブル・カンが亡くなると、その後を継いでモンゴル国第二代のカンとなり、全モンゴルを統治した。 アンバガイ・カンはブユル湖とコレン湖の間のウルシウン河のふもとにあるアイリウト・ビルウトというタタルの民に娘を与えるため、自ら娘を送りに行ったが、タタルの乣の民(ジュイン・イルゲン)〔『元朝秘史』には「主因亦児堅」という文字で書かれる。この「主」ǰü~ǰuが、『遼史』『金史』あるいは『元史』に「乣」という特殊な文字で写されたものの原音と見られるが、『黒韃事略』の説明によると、五十人を一隊として編成された、国境防備のための外人傭兵部隊を指すものであった。おそらくは契丹語に由来する語であって、最初は遼朝下で保有を許された王侯貴族の私属の軍隊を名指したが、次の金朝にはいると、この語は自国の覇絆の下に置かれた北方遊牧民から編成した国境守備隊を意味するように使用されて、奚族から出た「咩乣」、タングート族から出た「唐古乣」、モンゴル族から出た「萌骨乣」などの多くの乣軍の名が輩出するようになったらしい。ここに見える「タタル乣」もその一つであろう。≪村上 1970,p69≫〕によって捕えられ、金帝国の皇帝のもとへと連行された。この時、アンバガイ・カンはベスト氏族のバラカチ使臣(エルチン)に言づけて、息子のカダアン・タイシにカブル・カンの四男クトラと共に我の仇を取れと命じた。〔村上 1970,p66-67〕 アンバガイ・カンは金帝国に連行されると、木馬に釘打ちの刑に処されて死亡した〔女真(金朝)皇帝はかつて自分の役人がカブル・カンによって殺されたことを思い出し、遊牧民の叛徒を懲罰する刑法である木馬に釘打ちの刑に処した。≪佐口 1968,P27≫〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンバガイ・カン」の詳細全文を読む
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