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アンヘル・アマデオ・ラブルナ(Ángel Amadeo Labruna、1918年9月28日 - 1983年9月20日)はアルゼンチン、ブエノスアイレス出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。1940年代に「ラ・マキナ(機械)」と呼ばれたCAリーベル・プレートの一員である。 CAインデペンディエンテなどに所属したアルセニオ・エリコと並び、アルゼンチンリーグの最多得点記録者でもある。 == 経歴 == 1939年6月18日、CAリーベル・プレートでアルゼンチンリーグデビュー。その後20年に亘って所属して9度のリーグ優勝を果たし、1943年と1945年にはそれぞれ23得点と25得点を挙げて個人としてもリーグ得点王にも2度輝いた〔Argentina - List of Topscorers IFFHS.com〕。また、ボカ・ジュニアーズとのスーペルクラシコでも通算16得点を記録した。アドルフォ・ペデルネラ、ホセ・マヌエル・モレノ、フェリックス・ロウストウ、フアン・カルロス・ムニョスらが共にプレーした当時、リーベル・プレートは''"La Maquina"''(機械)と呼ばれた。 1959年、ラブルナは515試合で293得点という記録を残してクラブを離れ、ランプラ・ジュニオールス、CAプラテンセ、CSDレンジャーズなどでプレー。43歳で引退した。 アルゼンチン代表として37試合に出場。1955年のコパ・アメリカで優勝したほか、40歳で迎えたスウェーデンW杯にも招集された。しかし、同世代の選手と同じように第二次世界大戦によって他のワールドカップに出場することは出来なかった。 引退後はアシスタントコーチや監督などを務め、リーベル・プレートやCAプラテンセ、ロサリオ・セントラル、ラシン・クラブ、CAラヌース、チャカリタ・ジュニアーズ、アルヘンティノス・ジュニアーズなどの指揮を執った。ロサリオ・セントラルでは、1971年にクラブ初の優勝に導いた。 1981年にリーベル・プレートの監督を退任し、1983年に死去。ブエノスアイレスに埋葬された〔Angel Amadeo Labruna findagrave.com〕。毎年、リーベル・プレートのファンはラブルナの誕生日である9月28日を祝っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンヘル・ラブルナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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