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アンドレ=マリ・アンペール(André-Marie Ampère, 1775年1月20日 - 1836年6月10日)は、フランスの物理学者、数学者。電磁気学の創始者の一人。アンペールの法則を発見した。電流のSI単位の アンペアはアンペールの名にちなんでいる。 == 前半生 == フランス中南部の都市リヨンに生まれ、近郊のポレミュー=オー=モン=ドールで育った。幼いころから知識欲が強く、数字すら知らないころに小石や干しインゲンとビスケットのかけらを使って複雑な足し算を解いたと言われている〔フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』 III フランス革命―世界大戦前夜 原書房 2005年 110ページ〕。父親はまずラテン語を教えたが、数学の素質を見抜くと止めた。しかし、アンペールは自らラテン語の学習を再開した。オイラーやベルヌーイの研究を学ぶためである。14歳にして、ディドロ、ダランベールの『百科全書』20巻を読破している〔。晩年の言葉によると、18歳のときに当時の数学についての研究成果を学び終えていたという。しかし、博学者として読書の趣味は幅広く、歴史や紀行、詩、哲学、自然科学一般を好んだ。 フランス革命の間、アンペールの父はリヨン市内の方が安全だと考えてリヨンに留まっていた。1793年、リヨンが国民公会の軍隊によって占領されると、アンペールの父親は投獄後、断頭台で死刑になってしまう。「juge de paix」(Justice of the Peace) と呼ばれるフランス法廷に勤めており、フランス革命は行き過ぎであるという態度を断固としてくずさなかったためだ。このようなことがあったため、アンペールの多感な心は打ちひしがれ、1年以上も無気力になってしまった。あるとき植物学の投稿前論文を入手したことで、学問に対する興味が戻ってきた。その後、古典詩人の研究、さらに詩作へと関心が移っていった。 1796年、後の妻ジュリー・カロンに初めて出会う。1799年に結婚。1800年に息子のジャン=ジャック・アンペールを儲ける。アンペールは1796年頃からリヨンで数学・化学・語学などの家庭教師をしていたが、1801年に妻と子をリヨンに残したままブールのリセ・ジェローム・ラランドに赴任、物理学と化学の教師を務める。1803年7月、妻ジュリーが死去。1804年、リヨン大学の数学教授に任命された。 1806年にパリでジャンヌ・フランソワーズ・ポトと再婚。ポトとは娘のアルビヌ・アンペールをもうけた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンドレ=マリ・アンペール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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