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アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson、1908年8月22日 - 2004年8月3日)は、フランスの写真家。 20世紀を代表する写真家であると多くの写真家・芸術家から評されている。彼は小型レンジファインダーカメラを駆使し、主にスナップ写真を撮った。芸術家や友人たちを撮ったポートレイトもある。 彼はライカに50mmの標準レンズ、時には望遠レンズを装着して使用した。1947年にはロバート・キャパ、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーと共に国際写真家集団「マグナム・フォト」を結成した。 == 経歴 == アンリ・カルティエ=ブレッソンは1908年、フランスのセーヌ=エ=マルヌ県シャントルーの中流家庭に生まれた。両親は織物製造業を営んでいた。彼の写真術への関心は非常に若い頃から始まった。少年の頃カルティエ=ブレッソンはボックス・ブラウニーを所有し、休日にそれでスナップ写真を撮影した。1923年(15歳)頃にシュルレアリスムの影響を受け、1927 - 28年にはキュビズムの彫刻家アンドレ・ロートに師事した。当時は芸術的野心に燃える画家志望の一青年に過ぎなかった。 本格的に写真に取り組み始めたのは1931年からで、そのきっかけはシュルレアリストのマン・レイの写真に刺激されてのことであった。ただし、35mmカメラのライカIIIを使ったスナップ・ショットを基本とする姿勢は、イメージの交錯をフォトコラージュなどで表現したシュルレアリスムの写真とは異なったものだった。1933年にはニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで初の個展を開催したものの、一部の熱烈な支持を受けるのみに留まった。その後、スペイン(1932年 - 1933年)、メキシコ(1934年)と撮影旅行に行き、1935年から1939年にはポール・ストランドやジャン・ルノワールらの助手として映画の仕事にも携わっている。 1936年にはパリの新聞社に就職を試みて失敗し、同じ境遇にあったキャパ、シーモアらとカフェで偶然に出会った。 第二次世界大戦中、カルティエ=ブレッソンはフランス軍で勤務した。フランス戦で彼はドイツ軍に捕らえられ捕虜となった。2回の逃走の試みが失敗した後3度目に成功し、戦争の終結までレジスタンス運動に加わった。戦死したという噂により1946年にはニューヨーク近代美術館での回顧展が開かれ、実際には無事であった本人が出席した。 1947年には写真家集団「マグナム・フォト」をキャパ、シーモア、ロジャー、ウィリアム・ヴァンダイヴァーらとともに結成した。有名誌の依頼によって彼はヨーロッパおよびアメリカを横断した。1948年から1950年には、インドで暗殺前後のマハトマ・ガンディー、中国で国民党の最後と中華人民共和国誕生後とを半年間ずつ、インドネシアの独立などを撮影した。1954年にはカメラマンとしては初めてソビエト連邦に入国許可された〔「日常をアートに変えた写真家 アンリ・カルティエ=ブレッソン」『pen』No.201 阪急コミュニケーションズ 2007年7月1日 雑誌コード 27961-7/1 〕。 彼の写真集の多くは1950年代から1960年代にかけて出版された。最も有名なものは1932年から1952年に撮影された写真を集成し1952年に出版された『決定的瞬間』(英題:''The Decisive Moment''、仏原題:''Image à la sauvette''(「逃げ去る映像」の意))である。この写真集の表紙には画家アンリ・マティスによるコラージュが用いられた。 1965年には日本に5か月ほど滞在した。 1966年にはマグナムを退会した。1967年、ジャワ出身の舞踏家ラトナ・モヒニと30年間の結婚生活の後に離婚。 1970年には写真家マルティーヌ・フランクと再婚。 1974年以降は画家の仕事に傾倒していった。彼は ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない。(キメルマン〔マイケル・キメルマン『語る芸術家たち 美術館の名画を見つめて』木下哲夫訳、淡交社、2002年。ISBN 978-4-473-01891-5〕、58ページ)と語っている。 2004年8月3日、95歳で南フランスのプロヴァンスの別荘で死去した。 独創的なスタイルの映画監督ロベール・ブレッソンと血縁関係はない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンリ・カルティエ=ブレッソン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Henri Cartier-Bresson 」があります。 スポンサード リンク
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