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アンリ・コシェ(Henri Cochet, 1901年12月14日 - 1987年4月1日)は、フランス・リヨン出身の男子テニス選手。 グランドスラム優勝7回。全仏優勝4回は現在歴代3位記録。1976年国際テニス殿堂入り。 同僚のフランス人選手ジャン・ボロトラ(1898年 - 1994年)、ジャック・ブルニョン(1895年 - 1978年)、ルネ・ラコステ(1904年 - 1996年)と並んで、フランスの「四銃士」(''Les Quatre Mousquetaires'')と呼ばれた。 == 来歴 == アンリ・コシェの父親はリヨン市内にあるテニスクラブの秘書を務めていた人で、彼はその恵まれた環境の中で自然にテニスに親しんでいった。子供の頃にテニスコートの維持管理の仕事を手伝い、球拾いにいそしんだことから、彼には「リヨンのボールボーイ」(Ball Boy of Lyon)というニックネームがついた。1921年にコシェはパリに出て、そこでジャン・ボロトラと出会う。1922年からコシェとボロトラは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのフランス代表選手となる。この年に、コシェは全仏選手権の決勝でジャン・サマズイユ(Jean Samazeuilh)を 8-6, 6-3, 7-5 で破り、大会初優勝を飾った。翌1923年にジャック・ブルニョンとルネ・ラコステがデ杯のフランス・チームに加わり、こうしてフランスの「四銃士」が世界のテニスの表舞台で活動を始める。1924年までは、全仏選手権の出場資格はフランス人選手のみに限定されていた。1925年から国際大会となり、フランス人以外の選手にも出場資格が与えられるようになった。したがって、1922年のコシェの初優勝はテニスの「公認記録」から除外される。 その後、コシェは全仏選手権で1926年・1928年・1930年・1932年と2年おきに優勝した。この4勝が、彼の公認優勝記録となる。これは1980年にビョルン・ボルグによって破られるまで(ボルグの5勝目、大会3連覇)全仏選手権(現在の全仏オープン)の男子シングルス最多優勝記録であった。ウィンブルドン選手権では1927年と1929年に2勝を挙げ、全米選手権では1928年に優勝している。したがって、コシェは公認優勝記録で4大大会シングルス通算「7勝」を記録したことになる。 フランスの「四銃士」と同時代に活躍したライバル選手の中に、アメリカのビル・チルデンやビル・ジョンストンなどがいた。コシェの全仏優勝のうち、1930年の優勝は決勝でチルデンを破って獲得したものである。また、コシェは地元開催の1924年パリ五輪で、男子シングルス・ダブルスとも決勝でアメリカのビンセント・リチャーズに敗れて銀メダルに終わったこともある。五輪の男子ダブルスではブルニョンとペアを組み、リチャーズとフランシス・ハンターの組に敗れた。 1929年(昭和4年)10月、アンリ・コシェはジャック・ブルニョン、ピエール・ランドリー、レイモンド・ロデルとともに4人の一行で来日した。日本テニス協会はこの「日仏対抗戦」のために、東京に2000人収容の仮設スタンドつきテニス・コート2面を設置した。とりわけコシェは当時の日本人選手とさほど変わらない体格であったため、彼のプレーぶりは若手の有力選手たちに大きな刺激を与えた。 1974年、「四銃士」の物語がアメリカの映画監督リチャード・レスターにより映画化された。レスターは前年の1973年にデュマの小説『三銃士』の映画化を行い、それに続いて1920年代-1930年代前半に活躍した4人のフランス人テニス選手のドキュメンタリーも残したのである。 1976年、「四銃士」のメンバーたちは4人揃って国際テニス殿堂入りを果たす。4人とも長寿に恵まれたが、コシェは1987年4月1日に85歳の生涯を閉じた。彼の存命中に、ビョルン・ボルグが全仏オープンで男子シングルス最多優勝記録を更新し、1981年に大会4連覇で通算「6勝」を達成した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンリ・コシェ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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