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アンリ・コナン・ベディエ(, 1934年5月5日 - )は、コートジボワールの第2代大統領(在任:1993年 - 1999年)。 == 経歴 == 前任の「建国の父」フェリックス・ウフェボワニが在任中に死去したため、憲法上の規定に従い国民会議(国会)議長から暫定大統領に就任。しかし、ウフェボワニの築き上げた体制を維持する力はベディエには無く、経済は停滞し、政府の統治能力及び求心力は減退していった。 このため1995年の大統領選挙は不利と見られていたが、有力対抗馬のアラサン・ワタラがブルキナファソ系であることに目をつけ、国籍法改正によりコートジボワール生まれの者だけが大統領選に出馬できるようにしたため、野党勢力のボイコットの中大統領選に勝利し、正式に第2代大統領となる。 また、ワタラ排除や経済社会状況打開のため、イヴォワリテ(コートジボワール人性)政策を採ってナショナリズムを煽った。ブルキナファソやガーナ、マリなどから来た移民の開拓した農地を認めず、南部の在来集団に有利な政策をとった。また、宗教的に差異のある北部(北部はイスラム教、南部はキリスト教)も、イヴォワリテ政策により冷遇されることとなった。 しかし、コートジボワールにおける移民の割合は26%にも達しており、コートジボワール経済の要であるカカオ生産を担っていたのは彼らであったため、この政策は加速度的に混乱を深めさせていくだけだった。さらに、北部はこの政策によって南部と対立を深め、後の内戦の重要な要因となった。 1999年12月24日、ロベール・ゲイ元参謀長らがクーデターを強行し、ベディエはフランスに亡命。しかしゲイが選挙に失敗し逃亡すると2001年に帰国し、2002年4月にコートジボワール民主党の党首に再選された。 2010年コートジボワール大統領選挙にも出馬したが、第一回投票にてローラン・バボ、アラサン・ワタラに次ぐ第3位の得票数で敗退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コナン・ベディエ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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