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アンリ・ミュレ : ウィキペディア日本語版
アンリ・ミュレ

アンリ・ミュレHenri Mulet 1878年10月17日 - 1967年9月20日)は、フランス作曲家オルガニスト
== 生涯 ==
ミュレはパリモンマルトルに生まれた。彼はサクレ・クール寺院で働く父の助手として教会でハーモニウムを弾くようになる。彼の母もバシリカのハーモニウム奏者であり、そこでピアノオルガンの指導も行っていた。当時のバシリカは建設途中であり、近く「大オルガン」の設置が予定されていた。
ミュレは1893年ジュール・デルサールチェロのクラスで1等賞を獲得した。パリ音楽院においてはラウール・プーニョグザヴィエ・ルルー和声法を師事、1896年に1等賞となった。オルガンはアレクサンドル・ギルマンシャルル=マリー・ヴィドールに師事し、1897年にはこの楽器で2等賞に輝いている。パリではいくつかの教会のオルガニストを歴任し〔サクレ・クール寺院の合唱指揮者、モンルージュのサン・ピエール寺院のオルガニスト(1901年まで)、サン・ウスタシュ、サント・マリー・デ・バティニョール(1910年)、サン・ロック(1912年)、最後がサン・フィリップ・ドゥ・ルール。〕、ルイ・ニデルメイエールの音楽学校やスコラ・カントルムの教授も務めた。
1937年に一部の管弦楽作品をフェリクス・ロージェルに託して、ミュレは自作原稿の大半を焼却処分してしまった。彼はパリを後にしてプロヴァンスドラギニャンへと移り、フレジュスを見下ろす家を構えて姉妹や母とともに住んだ。ドラギニャンでは1958年まで聖堂のオルガニストとして勤務し、その後は当地の施設において修道女の手伝いに従事した。彼はイザベルという女性と結婚したが、子どもは儲けなかった。彼はドラギニャンに没した。
ミュレは風変り、あるいは幾分奇矯な言動を見せる人物であった。友人も少なければ文通相手もおらず、孤独な生活をしていたために彼の生涯に関する情報は限られている。彼は88年の生涯を全うしたが、作曲を行ったのはそのうちわずか15年程度だけであった。彼は最後の30年間隠遁生活を送り、死亡した際には完全に忘れられた存在となっていた。パリの新聞各紙でミュレの死亡記事を掲載したものはなかった。現存する彼の作品もほとんど忘れられている。
シャルル・トゥルヌミールはミュレを称賛してこう述べている。「アンリ・ミュレ、この風変りで偉大な芸術家は神秘的な理想の囚われ者だ。穏やかな即興家かと思えば、ある時は生気溢れ、ある時は敬虔になってみせる。偉大な中世の巨匠に比肩しうる芸術家であり、彼の場合、現代芸術への造詣も欠くことはない。謎に満ちた思索家なのである。」

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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