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アヴィス騎士団(アヴィスきしだん、)は、ポルトガルの騎士修道会。エヴォラのサンタ・マリア修道会、聖ベントのアヴィス騎士団、アヴィス王立騎士団などの旧称がある。 ==歴史== ポルトガル王国は1128年にカスティーリャ王国から独立し、イベリア半島におけるレコンキスタに参加した。戦いには多くの十字軍騎士たちが参加していたが、彼らは一時的に義務を負うのみであり、契約が切れれば、戦争が終わっていなくても故郷へ帰ってしまう者が多かった。騎士の多くはピレネー山脈以北から十字軍に参加しにきた外国人だった。1128年、テンプル騎士団がローマ教会の認可を受け、ポルトガル王太后テレサ・デ・レオンはテンプル騎士団のポルトガルでの活動を許可した。こうしてポルトガル人の騎士団が生まれた。また、国王アフォンソ1世はムーア人から奪回したエヴォラの街を騎士団に与え、異母弟のペドロ・エンリケスを総長とした。ここから騎士団は「エヴォラのサンタ・マリア修道会」と呼ばれるようになった。 「聖ベントのアヴィス騎士団」と呼ばれるようになったのは、アヴィス城を攻略してそこへ拠点を移し、ベネディクト会の戒律を採用した1162年以後のことである。カスティーリャ王国のカラトラバ騎士団のように、ポルトガルの騎士団はシトー会の慣習と規律に大きな影響を受けていた。白のマントに緑の百合模様のついた十字はその例である。ポルトガル内のカラトラバ騎士団は、「カラトラバ騎士団の総長がアヴィス騎士団を訪れた際は彼に従う」ことを条件に、アヴィス騎士団へその拠点を明け渡した。このことから、アヴィス騎士団はカラトラバ騎士団の支流とみなされることもあるが、実際にはアヴィス騎士団の総長は常にポルトガル人であり、ポルトガル王の親族であった。 1383年、フェルナンド1世の死によりポルトガルとカスティーリャの間に戦争が起き、アヴィス騎士団総長ジョアンが王位につくと、彼は騎士達にカスティーリャ人に従うことを禁じた。その後、カラトラバ騎士団の総長ゴンサロ・デ・グスマンがアヴィス騎士団を訪問したが、アヴィス騎士たちは彼を厚くもてなしはしたが、新たな総長とは認めなかった。グスマンは抗議し、論争は1431年のバーゼル公会議でポルトガル側の非が宣言されるまで続いた。しかし、カラトラバ騎士団の権利は結局行使されず、次のアヴィス騎士団総長ロドリゲス・デ・シケイラは自らの地位を守り続けた。 ポルトガルがムーア人を駆逐し、レコンキスタが終結するとともに騎士団の布教活動も終わると思われたが、ポルトガルの海外進出によって新たな役目を担うことになる。ジョアン1世による1415年のセウタ攻略、その子ドゥアルテ1世の1437年のタンジール攻撃などにおいても、騎士団はその宗教精神と、教皇の認可に基づいて活躍した。ともにテンプル騎士団を元祖とするアヴィス騎士団やキリスト騎士団はその武勇によって大きな功績を残した。前者はフェルナンド王子、後者はエンリケ王子に率いられており、ともにドゥアルテ1世の弟であるフェルナンドはムーア人に捕われ、6年間監禁された後死去したが、彼は殉教したとみなされて列聖された。 しかし、この様な情熱も次第に失われていった。海外進出による富の蓄積によって国内は潤い、アフリカの十字軍は単なる商業組織へと変わっていった。教会の支持は金銭調達のための建前に利用され、1551年には騎士団の権限を国王が全て握るようになった。騎士団の収入は国王の手に渡り、陸軍、海軍の費用に利用されることになる。騎士団の宗教精神は消え、修道生活を送る者も少なくなった。1502年、教皇アレクサンデル6世は騎士たちに妻帯を許し、1551年にはユリウス3世が財産所有を認めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アヴィス騎士団」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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