|
初代バルフォア伯爵、アーサー・ジェイムズ・バルフォア(, 、1848年7月25日 - 1930年3月19日)は、イギリスの政治家、哲学者、貴族。 ソールズベリー侯爵引退後の保守党を指導し、1902年から1905年まで首相を務めた。政権交代後も自由党の長期政権下で6年ほど野党保守党の党首を務めたが、1911年には党首の座をアンドルー・ボナー・ローに譲る。 第一次世界大戦中に成立した自由党・保守党大連立の挙国一致内閣ではや外務大臣などを歴任し、バルフォア報告書やバルフォア宣言に名を残す。 == 概要 == 1848年に大富豪・大地主の息子としてスコットランド・に生まれる。ケンブリッジ大学で哲学を学んだ後、1874年に保守党の庶民院議員に初当選。1878年、外務大臣第3代ソールズベリー侯爵の議会担当秘書官を務めた。 1880年の保守党の下野後、党内の反執行部グループらと派閥「」を形成。1885年ににとして入閣。1886年の第二次ソールズベリー内閣ではスコットランド担当大臣、ついでに就任する。アイルランド強圧法を制定して激しいアイルランド民族運動の弾圧を行い、「血塗られたバルフォア」の異名を取った。一方で融和政策もとり、アイルランド小作人の土地購入を促す「バルフォア法」を制定した。1891年には第一大蔵卿および庶民院院内総務に就任。1895年、にも第一大蔵卿・庶民院院内総務として入閣。中国分割をめぐる諸交渉や中等教育の普及を目的とする「バルフォア教育法」の制定を主導した。 1902年7月にソールズベリー卿に代わって首相・保守党党首となる。1903年にウィンダム法を制定してアイルランド小作人の土地購入を促進し、1905年にを創設して国防強化に尽力。外交面では極東で膨張するロシア帝国を牽制するためにフランスに接近し、アフリカやアジアにおける利権・領有権問題の諸交渉に折り合いをつけた。また日本との関係も強化し、日露戦争中に日英同盟を更新・強化した。一方、関税問題への対応や南アフリカの中国人奴隷問題での対応で支持を減らした。1905年12月に総辞職し、自由党に政権を移譲。 その後もバルフォアは保守党党首職に在職し続け、1906年1月の解散総選挙での惨敗後、貴族院を中心に反政府闘争を主導した。1909年11月には蔵相ロイド・ジョージの「人民予算」を貴族院で葬り去った。しかし、これがきっかけで貴族院の権限縮小を盛り込む議会法案が提出され、自由党政権から新貴族任命の脅迫を受け、1911年8月に議会法の可決成立を認めたことで党内の求心力を失い、同年11月には党首を辞した。 第一次世界大戦中の1915年のアスキス挙国一致内閣では海軍大臣として入閣し、続く1916年のロイド・ジョージ挙国一致内閣では外務大臣となった。1919年にはに転じるも1922年の大連立解消を機に退任。1922年には初代バルフォア伯爵に叙爵し、貴族に列する。スタンリー・ボールドウィン保守党政権下の1925年にも枢密院議長に再任するが、1929年には政界引退し、その翌年の1930年に死去。 アマチュアの哲学者としても活躍し、宗教に関する哲学書を多数著している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アーサー・バルフォア」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Arthur Balfour 」があります。 スポンサード リンク
|