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アーサー・テューダー(Arthur Tudor, 1486年9月20日 – 1502年4月2日)は、イングランド王ヘンリー7世と王妃エリザベスの第1王子でヘンリー8世の兄。プリンス・オブ・ウェールズに立てられたが、国王即位を果たせずに早世した。 == 生涯 == エリザベス・オブ・ヨークはヨーク家のエドワード4世の王女で、ヘンリー7世は対立するランカスター家の系統だったことから、2人の結婚によって長引く薔薇戦争の内乱は終止符を打たれた。翌1486年、第1子アーサーが誕生すると、王太子(ウェールズ公)として、将来を期待された。アーサーの名前は、アーサー王伝説の根強いウィンチェスターで誕生したから、とされる。 1489年3月、アーサーはアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベル1世の末娘カタリーナ・デ・アラゴン(英語名:キャサリン・オブ・アラゴン)と婚約した。アーサーは2歳、キャサリンはまだ0歳だった。 しかしイングランド側がスペイン(カスティーリャ=アラゴン)側に、20万クラウンという破格な額の持参金を請求したことと、国際情勢のために、婚約は何度も破綻の危機に面した。1501年10月、ようやくキャサリンはプリマス港に上陸、11月、ウェストミンスター寺院においてアーサーとキャサリンは結婚式を挙げた。 同年12月、アーサーはキャサリンを連れてウェールズのラドロー城へ移った。しかしアーサーは生来病弱な体質で、翌1502年に重い感冒にかかり、4月2日に高熱のため15歳の若さで没した。 残されたキャサリンは、アーサーの弟である第2王子ヘンリー(後のヘンリー8世)と婚約し、ヘンリーの即位により王妃となった。後にヘンリー8世はキャサリンと離婚するが、離婚理由として先夫アーサー王太子との肉体関係の有無が問題となった。キャサリンは肉体関係はなかった、と神にかけて宣誓した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アーサー・テューダー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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