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アーサー・チン(Arthur "Art" Chin、中国名:陳瑞鈿(ちん ずいでん)、1913年10月23日 - 1997年9月3日)は中国系アメリカ人で、日中戦争に参加しエース・パイロットとなった。最終階級は少佐。撃墜数8.5機。 == 経歴 == オレゴン州ポートランドに広東出身の父親とペルー系白人の母親の間に生まれた。1931年の日本の中国侵攻に刺激されたチンは、1932年にポートランドの航空学校に入校。それから15人の中国系アメリカ人とともに中国へ渡り、陳済棠下の広東空軍に加わった。1932年12月1日、准尉見習飛行士官に任命され、1933年2月23日に少尉へ昇進した。 1936年、彼はさらにミュンヘンのドイツ空軍に留学して空中戦理論を学んだ後、同年9月1日に中尉に昇進して広東空軍第6隊隊長となった。1936年に広東空軍が中央空軍に編入されてからは、1937年2月から6月まで中央航空学校で飛行教官を務め、6月10日に第5大隊第28中隊の副中隊長となった。中隊の装備機はであった。 1937年8月、日中戦争が勃発すると、チンの第28中隊は南京近くの飛行場に配置された。8月16日、台湾から発進した日本海軍の九六式陸上攻撃機を南京上空で撃墜したのがチンの初戦果となった。翌月、チンは4機のカーチス ホークⅡを率いて広東省韶関の飛行機製造廠を守る任務につき、9月27日に九六式陸攻を撃墜した。 1938年1月、国民政府がイギリスから購入したグロスター グラディエーターが中国へ到着して組み立てられ、第28中隊などへ配備されることになった。2月9日、チンは受領したグラディエーターに乗って南昌を発ったが、吹雪に遭遇して丘に激突、右眼に軽傷を負った。5月末に怪我から回復したチンは、すぐに戦闘に参加して九五式水上偵察機を撃墜した。 1938年から1939年までの間にチンはグラディエーターで多くの戦闘に参加し、さまざまな日本軍機と戦って撃墜記録を増やした。1938年12月1日、チンは少佐に進級し、続いて12月27日に第3大隊副大隊長となった。 1939年12月27日、広西省の崑崙関の戦いで地上軍を支援するため、チンはSB爆撃機を護衛してグラディエーターで出撃した。この戦闘で九六式艦上戦闘機に撃墜され、パラシュートで脱出したが重大な火傷を負った。その後香港の病院で数年にわたって手術と治療をうけ、1941年12月に日本軍の香港占領から逃れるとアメリカへ戻った。傷の回復後、1945年3月1日にチンは正式に中国空軍を退役し、アメリカ陸軍航空軍に所属してヒマラヤ越えの輸送作戦に参加した。 戦後、チンは1950年まで中国航空公司(CNAC)に勤務した。その後航空関係の仕事が見つからず、ポートランドへ戻り地元の郵便局で働いた。 第二次世界大戦が終了して50年後の1995年2月24日、アメリカ政府はチンを退役軍人として認め、殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross)を授与した。チンは1997年9月3日にポートランドで死去し、1ヵ月後の10月4日、空軍記念博物館の記念殿堂に最初のアメリカ人エース、中国系アメリカ人の英雄として加えられた。現在では第二次世界大戦の最初のアメリカ人撃墜王として認められている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アーサー・チン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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