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イキケの海戦(イキケのかいせん)とは、南米の太平洋戦争中の1879年5月21日に、当時のペルー領イキケ港沖でペルー海軍とチリ海軍が戦った海戦である。ペルー艦隊がチリ艦隊の木造艦1隻を沈めて海上封鎖を解いたが、自らも座礁事故で装甲艦1隻を失う大打撃を受けた。後半戦をグルエサ岬の海戦(Battle of Punta Gruesa)と呼んで別の戦闘として扱うこともある。 ==背景== 1879年4月5日、チリが、ペルーとボリビアの同盟に対して宣戦布告して南米の太平洋戦争は勃発した。 この戦争では、制海権が重要な戦略的要素となった〔La Marina de Guerra en la República Siglo XIX - ペルー海軍公式より。(2009年7月1日閲覧)〕。制海権を握った側が陸軍部隊を自由に海上移動させて、重要拠点を占領することが可能となるからである。また海上封鎖により、敵の補給を遮ることもできるのである。ボリビアの海軍と呼べる戦力は存在しなかったため、事実上はペルー海軍とチリ海軍の戦いとなった。 ペルー海軍は主力として砲塔装甲艦「ワスカル」と装甲フリゲート「インデペンデンシア」を有し、このほかに沿岸専用装甲艦のアタワルパ級モニター2隻、コルベット1隻、砲艦1隻、輸送船4隻を持っていた。ペルー海軍は現有戦力でチリ海軍に劣ると判断し、艦隊決戦を回避して通商破壊戦を行って時間を稼ぎ、その間に陸上防備の強化と新型艦の整備を行う戦略を立てた〔。 これに対してチリ海軍は、アルミランテ・コクレーン級装甲フリゲートの「ブランコ・エンカラダ」と「アルミランテ・コクレーン」を主力とし、ほかにコルベット4隻〔Potencia Navales Comparadas - チリ海軍公式より。(2009年7月1日閲覧)〕、砲艦2隻と輸送船多数を保有していた。艦隊の構成はペルー海軍に似通っていたが、主力装甲艦はペルー海軍のものよりも装甲・火力・速力の全てで優れ、艦船の総数でも上回っていた〔。優勢なチリ海軍は、積極的にペルー艦隊の撃滅を図る方針だった〔Primeras Operaciones - チリ海軍公式より。(2009年7月1日閲覧)〕。 最初の海戦は1879年4月12日に発生し、コルベット「」と砲艦「」から成るペルー艦隊が、チリ海軍の砲艦「」と交戦した()。この戦闘では双方とも喪失艦は無かった。その後、沿岸に対する艦砲射撃や、チリ艦隊によるイキケ(当時はペルー領)の海上封鎖が行われた。なお、イキケは陸上からもチリ軍に包囲された。 同年5月に入って、チリ海軍司令長官少将は、ペルー艦隊がカヤオ軍港に集結中との情報を得た。そこで、レボエド少将は、カヤオを奇襲攻撃することにし、5月16日に主力艦隊を出撃させた。イキケの封鎖任務には、機関故障中だったコルベット「エスメラルダ」(艦長:中佐)のほか、スクーナー型砲艦「」(艦長:少佐)、輸送船「」からなる分遣隊を残した。イキケ残留のチリ軍艦2隻はいずれも非装甲の旧式木造艦だった。 ところが、チリ主力艦隊が出発したのと同日、ペルー海軍主力の装甲艦「ワスカル」(艦長:大佐)と「インデペンデンシア」(艦長:大佐)は、輸送船3隻を護衛してカヤオを出港していたCOMBATE NAVAL DE IQUIQUE - ペルー海軍公式より。(2009年7月1日閲覧)〕。輸送船にはアリカへの増援部隊が乗船し、うち1隻にはマリアーノ・イグナシオ・プラード大統領も乗っていた。カヤオに向かうチリ艦隊が沖合を航行していたのに対し、ペルー艦隊は沿岸航行をしていたため両軍は気付かないまま行き違いとなった。5月20日にアリカに到着したペルー艦隊は、イキケの封鎖が手薄になっているとの情報を得た。プラード大統領は、グラウ大佐らにイキケのチリ艦隊攻撃を命じ、ペルー装甲艦2隻は同日夜に出撃した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イキケの海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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