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東洋艦隊(とうようかんたい、)、別名東インド艦隊 (ひがしインドかんたい、)または極東艦隊(きょくとうかんたい、)は、1941年から1971年まで存在した、イギリス海軍の艦隊である。 1904年、第一海軍卿サー・ジョン・フィッシャーは、戦時には極東に3つの主力部隊(東インド戦隊(East Indies Squadron)、中国戦隊(China Squadron)〔日清戦争当時の中国戦隊について、尾崎庸介「一八九〇年代におけるイギリスの東アジア政策と中国戦隊---中国戦隊司令官フリーマントルからみた日清戦争」(政治経済史学512、2009年6月)がある。〕、オーストラリア戦隊(Australian Squadron))を置き、シンガポールに拠点を置く東洋艦隊がそれを統括すべきであるとした。指揮は中国戦域の司令長官が行うことになっていた。しかし第一次世界大戦の間は各戦隊は別個に命令を受けて行動しており、「東洋艦隊」はその総称として存在しただけだった。この3戦隊による構成は、第二次世界大戦で大日本帝国との戦いが始まるまで継続した。東洋艦隊は1941年12月8日、東インド戦隊と中国戦隊を合体させる形で正式に発足した〔''The British Empire and the Second World War'', Ashley Jackson, p. 289〕。 戦争中、東洋艦隊はオランダ海軍、オーストラリア海軍、ニュージーランド海軍やアメリカ海軍などの他の海軍からも、多くの船と人員を編入した。1944年から1945年にかけてイギリス太平洋艦隊が編成されたために、東洋艦隊は戦争の終結まで東インド艦隊と称した。戦後は極東艦隊と改称し、太平洋海域を含む極東全域にわたって行動した。 == 背景 == 第二次世界大戦まで、インド洋はイギリスの「内海」であった。インド洋はイギリスおよび大英連邦諸国の領土である主要な拠点に取り囲まれ、戦時平時を問わず、必要な戦略物資(ペルシャの石油、マレーのゴム、インドの茶、オーストラリアとニュージーランドの食品など)はインド洋を経由して運ばれる必要があった。イギリスはまたオーストラリアとニュージーランドの人的資源も活用していたため、この海域の貨物輸送の安全は極めて重要であった。 にもかかわらず、イギリス海軍は東洋海域には旧式の艦を配備し、また中国方面や極東方面の部隊は他の区域の増強のために流用されていた。深刻な脅威があるときであっても、あまりに鈍足・弱力のために大西洋や地中海では役に立たたない旧式の主力艦で主に構成されていた。 第二次世界大戦の勃発とともにドイツ海軍は商船を改造した仮装巡洋艦やポケット戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」を繰り出し、イギリスの通商路を締め上げにかかった。1940年中頃にはイタリアも参戦し、イタリア領東アフリカを根拠地とする艦船で紅海を経由する物資供給ルートを脅かした。さらに悪いことに1941年12月には日本が真珠湾攻撃を行って参戦、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を沈め、マレー半島、シンガポールおよびオランダ領東インド諸島を占領し、東からの脅威が拡大した。 その脅威は日本の圧倒的に強力な海軍部隊がインド洋東部で行動を開始し、航空母艦その他の軍艦を沈め、インド東海岸沿いの貨物輸送を妨害し始めたときに現実のものとなった。この頃のことについて、参謀総長サー・アラン・ブルック将軍はこう書いている: 我々は手も足も出ない状態だった!オーストラリアとインドは日本によって脅かされ、我々は一時的にインド洋の支配を失っていた。ドイツはイランと我々の油を脅かし、オーキンレックは砂漠で苦境に陥り、潜水艦による被害は甚大だった。 恐れられていたのは、ドイツと呼応した日本の勢力がイギリス海軍をインド洋から駆逐してインドにも深刻な影響をおよぼすことであり、そしてコーカサスやエジプトでのドイツの勝利がペルシア湾を脅かすことだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東洋艦隊 (イギリス)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eastern Fleet 」があります。 スポンサード リンク
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