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イギリス枢密院(いぎりす すうみついん)、正式名称・女王陛下の最も高潔なる枢密院(じょおうへいかの もっとも こうけつなる すうみついん、) は、イギリス女王の諮問機関。国王大権の行使に関する助言を行う。 == 歴史 == 沿革的には中世の王の諮問会議キュリア・レジスまで遡れる〔神戸(2005) p.163〕。 14世紀末、リチャード2世が未成年だった頃に摂政団・政治顧問団として重要な役割を果たすようになり、15世紀初め頃から「Privy Council」(私的評議会、枢密院)と呼ばれるようになった。 15世紀前半のヘンリー6世の未成年期に機能が強化されて、国政の重要機関となった。バラ戦争の間は衰退したものの、テューダー朝がはじまると再び重要機関となり、直属の国王大権裁判所である星室庁裁判所などを通じて司法にも影響力を及ぼすようになった。枢密院は徐々に整備されていき、エリザベス1世時代には統治の中心機関になっていた〔今井(1990) p.46〕。 ステュアート朝期にはピューリタン革命が発生し、共和政への移行により一時廃止されたが、1660年の王政復古とともに復活した。しかしこの頃から枢密顧問官の数が増加したため、枢密院が行政を取り扱うのは難しくなった。とりわけ王政復古後、チャールズ2世の信任の元に国政を主導した初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドが枢密院の行政事務をいくつかの委員会に分け、1679年にチャールズ2世がこの状態を公式に宣言したことで枢密院の行政府としての歴史は事実上終わりを告げた〔マリオット(1914) p.75-81〕。さらにクラレンド伯失脚後にはチャールズ2世が枢密顧問官の中から選抜した委員会Cabalが行政を取り扱うようになった。ここで審議したのちに枢密院の全体会議にかけるのが慣例となり、これが内閣(Cabinet)の端となった〔今井(1990) p.302〕。 以降枢密院の政治的影響力は低下し続け、また名誉革命後の議会政治・政党政治の発展に伴い、枢密院の長である(Lord President of the Council)は政権交代によって交代する閣僚職の一つとなった〔神戸(2005) p.163〕。 とはいえ枢密院令によって行政権限はその後も残した。また1833年からは枢密院の中に司法委員会(Judicial Committee)が設置され、と海外領土からの上訴を取り扱うようになった。また枢密院の重要な行政権能として教育委員会(Board of Education)が近代まで残った。同委員会はが主導したため、枢密院副議長もしばしば閣僚となった。しかし1899年に至って同委員会は枢密院から独立した省庁になっている〔マリオット(1914) p.144/151〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「枢密院 (イギリス)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Privy Council of the United Kingdom 」があります。 スポンサード リンク
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