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イシュトヴァーン5世(ハンガリー語:V. István、1239年10月18日 - 1272年8月6日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王〔Stephen V. (2009). In Encyclopædia Britannica. Retrieved July 16, 2009, from Encyclopædia Britannica Online: http://www.britannica.com/EBchecked/topic/565442/Stephen-V〕(在位:1270年 - 1272年〔)。ベーラ4世の子。 == 生涯 == === 幼年期 === ハンガリー王ベーラ4世の長子として生まれる。母ラスカリス・マーリアは、ニカイア帝国皇帝テオドロス1世ラスカリスを父に持つ。 イシュトヴァーンが2歳のとき、1241年4月11日にベーラ4世が率いるハンガリー軍はモヒの戦いでモンゴル軍に敗れる。敗戦の後、イシュトヴァーンと母マーリアは建国者イシュトヴァーン1世の聖骨と教会の宝物を持ち、ダルマチアの都市トラオへと避難した〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1968年12月)、192頁〕。オゴデイ・ハーンの訃報を受け取ったモンゴル軍がバルカン半島から撤退した後、イシュトヴァーンと母マーリアはようやくハンガリーに戻ることができた。 1246年にイシュトヴァーンはクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの統治を委ねられるが、この3つの地域は事実上バーン(太守、大貴族)のStephen Gut-Keledの支配下に置かれていた。ベーラは大貴族の抑制を試みて異教徒であるクマン人との関係を強化し、1253年にイシュトヴァーンとクマン人の族長クタンの娘エルジェーベトとの婚姻を取り決めた〔エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、95頁〕。 1257年にイシュトヴァーンはベーラ4世に領地の分割を要求し、父王に反抗するための軍隊を招集する。翌1258年にベーラはトランシルヴァニアの統治権をイシュトヴァーンに譲渡した。 1258年にスティリア(シュタイアーマルク)で反乱が起きると、イシュトヴァーンはスティリアの反乱の鎮圧に参加し、反乱の鎮圧後にの地位に就いた〔1254年にハンガリーとボヘミア王オタカル2世の間で結ばれた協定により、ボヘミアが有していたスティリアがハンガリーに譲渡されていた。(エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、96頁)〕。しかし、スティリアの領主の中にハンガリーの支配を歓迎する者は少なく、1259年末にオタカル2世の支援を受けたスティリアの領主はイシュトヴァーンに対して反乱を起こした。スティリアのハンガリー人は追放され、領主たちはオタカルに従属した。イシュトヴァーンとベーラは報復としてボヘミアを攻撃するが、1260年7月にハンガリー軍はクレッセンブルンの戦いでボヘミア軍に敗れ、ハンガリー王国は戦後に結んだプレスブルクの和議でスティリア公領の支配権をボヘミアに譲渡しなければならなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イシュトヴァーン5世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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