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イジャスラフ4世(イジャスラフ・ウラジミロヴィチ、もしくはムスチスラヴィチ)(ロシア語:Изяслав ВладимировичもしくはМстиславич、? - 1255年?)は、テレボヴリ公:1210年 - 1211年、プチヴリ公ならびにノヴゴロド・セヴェルスキー公:? - 1235年〔«Мир истории. Русские земли в XIII—XV веках», Греков И. Б., Шахмагонов Ф. Ф., «Молодая Гвардия», М., 1988 〕 、キエフ大公:1235年 - 1236年、カミェネツ公:1240年ごろ。 ==両親に関する諸説== イジャスラフは、伝統的な説としてはイーゴリ・スヴャトスラヴィチ(『イーゴリ軍記』のイーゴリ公)の孫であり、ウラジーミル・イーゴレヴィチの子であるとされる〔Карамзин Н.М. История государства Российского. — Т. 3. 〕 。(『イーゴリ軍記』によれば〔木村彰一『イーゴリ遠征物語』116 - 119頁〕、イーゴリ公が息子のウラジーミル等ともにポロヴェツ族の捕虜になった際に、ウラジーミルはポロヴェツ族の長コンチャーク=ハンの娘と結婚する。この2人の間に生まれた子がイジャスラフとされる。)その場合、母と父方の高祖母とがポロヴェツ族ということになり、イジャスラフは血統の上でルーシ人よりもポロヴェツ族に近いことになる。一方、多数の年代記が、イジャスラフの父称はムスチスラヴィチであると言及している〔Новгородская IV, Софийская I и Московско-Академическая летопись (ПСРЛ, т. IV, стр. 214; т. VI, вып. 1, стб. 287). 〕 。トヴェリの年代記に従うなら、父はムスチスラフ・ロマノヴィチであり、別の年代記は父をムスチスラフ・ムスチスラヴィチとしている〔Горский А. А. Русские земли в XIII - XIV вв. Пути политического развития. М., 1996. - С.17. Обзор мнений см. Майоров А. В. Галицко-Волынская Русь. СПб, 2001. С.542-544〕 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イジャスラフ4世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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