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イスラエル"タリク"・タル( 、1924年9月13日 - 2010年9月8日)とは、イスラエルの軍人。主力戦車メルカバの開発などイスラエル機甲部隊の発展に尽力し、「イスラエル戦車の父」と呼ばれることもある。機甲師団長、参謀次長などを務めた。イスラエル防衛章とイスラエル章を受章された。 ==経歴== 1924年9月13日、ガリラヤ地方ティベリアスに近いベヘル・トゥビア生まれ。1942年にイギリス軍に志願、第2大隊の軍曹として北イタリアで戦った。大戦終結後、ユダヤ旅団のユダヤ人の多くがイスラエル建国直前のパレスチナに移住したが、タルはハガナーのメンバーとイタリアに残り、機材調達運動(レヘシュ)を組織したのち、若手の歩兵将校として第一次中東戦争を戦った。1956年の第二次中東戦争では歩兵旅団長を務めた。 タルは歩兵将校としての評判を得つつあったが、この戦争におけるアブ・アゲイラの戦いによりイスラエル軍でも〔第一次中東戦争では戦車は歩兵支援としての運用にとどまったため、参謀総長モシェ・ダヤンをはじめとして「戦車は歩兵の支援兵器」という考えが根強かった。〕機甲部隊の重要性が認識され始め、タルは機甲科に転属、機甲軍副総監に任命される。1960年には第7機甲旅団長に任命され、同時にイスラエル軍が近代的装甲戦闘車両を得られるように西側諸国との関係を築きあげた。1964年に機甲総監に就任。1967年の第三次中東戦争ではシナイ方面の3個機甲師団長の一人〔ほかの師団長はアブラハム・ヨッフェ少将とアリエル・シャロン大佐。〕として地中海沿岸のルートを進撃し、エジプト軍に対する圧倒的勝利をおさめた。戦後まもなくエジプト軍のイスラエル陣地に対する攻撃(消耗戦争)が始まり、やがて参謀総長ハイム・バーレブ中将により防衛陣地(のちのバーレブ・ライン)構築計画が提案されたが、タルとシャロンはこの計画に反対した。1969年には参謀次長に就任する〔後任の機甲総監がアブラハム・アダン少将。〕。1970年8月、イスラエルの機甲部隊近代化計画がスタートし、タルは計画案の一つ、国産戦車「メルカバ」の開発責任者に任命される(メルカバ開発については後述)。 1973年、第四次中東戦争が勃発する。タルは参謀次長として部隊の指揮こそしなかったが、参謀総長中将を補佐した。戦争初期、イスラエルでは戦局挽回のため、核兵器使用が検討されたがタルはこれに強く反対した。停戦後臨時で南部軍総司令官を務めた。ダヤン国防相とエラザール参謀総長からエジプト軍の橋頭保に対する攻撃を命令されたが、このような命令にはゴルダ・メイア首相からの命令と最高裁判所による許可が必要だとして反対した。結局この命令は取り消されたが、これが原因で参謀総長への昇進の道を断たれたとされる。 1991年にはネゲヴ・ベン=グリオン大学の名誉博士号を得る。2002年、により、「軍事・安全保障」の部門で「ナイト・オブ・クウォリティー・ガバメント」に選ばれる。タルの写真はアメリカ・フォートノックスのパットンミュージアムにある「最優秀戦車指揮官の間」(Wall of Greatest Armor Commanders)に〔機甲総監等を務めたイスラエルの軍人。〕、ジョージ・パットン、クレイトン・エイブラムス、エルヴィン・ロンメルらの写真と一緒に飾られている〔http://www.generalpatton.org/Patton_Saber/PattonSaber_Spring03.htm/aaa〕。 2010年9月13日にレホヴォトで死去。享年85。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イスラエル・タル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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