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イスラーム革命評議会[いすらーむかくめいひょうぎかい] イスラーム革命評議会(; Shourā-ye Enqelāb-e Eslāmī)は、イラン・イスラーム革命遂行のため、革命指導者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーが自身の帰国直前に当たる1979年1月12日に組織した合議体。 == 概要 == 「数ヶ月、看護師の給料から銀行国有化にいたる何百もの決定と法律はこの評議会から出された」と評されるように、革命遂行とイスラーム共和国体制の設立に向けて中心的役割を担った〔富田1993、32頁〕。また、評議会中核メンバーを中心に1979年2月18日、も設立されている〔富田1993、55-56頁〕。革命評議会は1979年2月4日、を立ち上げ、評議会員のひとりメフディー・バーザルガーンを首班として推薦、ホメイニーはこれを承認した〔アーヤトッラー・ホメイニーによるバーザルガーンの任命と2月5日の説教〕。行政府としての暫定政権成立により、評議会は行政を分離して立法府的役割を果たしたが、バーザルガーンをはじめ暫定政権の主要閣僚は評議会出身者で占められており、「二重政府」と評された。それにもかかわらず暫定政府と、イスラーム共和党主導で政府から独立した活動をおこなう評議会とのあいだではたびたび軋轢が生じているが、これはイスラーム共和党による政権掌握と非イスラーム共和党諸派の排斥と軌を一にするものである〔富田1993、30-36頁〕。圧力に屈した暫定政府がアメリカ大使館人質事件発生により総辞職すると行政も担い、公式に政府として機能し、イスラーム共和制の確立に邁進することになる。革命評議会のもとで憲法草案の起草とこれに伴う国民投票、さらに議会選挙などが実施され、1980年8月12日にイスラーム共和国第1議会が招集されると、その役割を終えた。革命体制が不安定であった初期には安全上の理由から存在が秘匿されており〔1979年2月1日のホメイニーのテヘラン到着時に、評議会について「秘密である」と説明されている〕、成員と組織のあり方についても1980年前半まで公開されていなかった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イスラーム革命評議会」の詳細全文を読む
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