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イタリアによるアメリカ大陸の植民地化(イタリアによるアメリカたいりくのしょくみんちか、)は、17世紀初期にトスカーナ大公国がブラジル北部に植民地建設を企てたものであり、規模も期間も限られたものとなった。トスカーナのフェルディナンド1世・デ・メディチは1608年にロベルト・ソーントン船長の指導する遠征隊を組織させ、ブラジル北部とアマゾン川を探検し、南アメリカ北部海岸に開拓地を設立させる準備をすることで、ルネサンス期のイタリアにブラジルの貴重な主に木材や香料を輸出させる基地とすることを目指した。 == フェルディナンド1世・デ・メディチの植民の試み == トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチが、アメリカ大陸で唯一イタリアの植民地創設の試みを監督した〔Ridolfi, R. ''Pensieri medicei di colonizzare il Brasile'', in «Il Veltro», Roma, luglio-agosto 1962, pp. 1-18〕。 フェルディナンド1世は17世紀の始めに、アマゾンのジャングルにある豊かさ取り込むために、ブラジル北部に交易を行う植民地を創設しようとした。南アメリカから貴重な木材、香料および鉱物をルネサンス期のイタリアに運ぶ隆盛を極める貿易事業の支配を望んだ。 1595年にアマゾンを探検したイギリス人ロバート・ダドリーに接触し、アマゾン川とオリノコ川で金を探索することについて助言を得た。1608年、ダドリーは私掠船に使われていたガレオン船の''サンタルチア・ブオナヴェンチュラ号''を派遣してガイアナとブラジル北部に向わせることについてフェルディナンド1世を説得した。 このことを契機に1608年、フェルディナンド1世は遠征のためにソーントン船長にこのガレオン船と小型の支援用船舶を与えた。ソーントンは新しく整備されたリヴォルノの港から出帆し、ガイアナとブラジルに到着してアマゾン川とオリノコ川を探検した。1609年7月、ソーントンはリヴォルノに戻ったが、その年の2月にフェルディナンド1世が死亡しており、後継者のコジモ2世は海外植民地を建設することに興味がなかった。ソーントンはその夏にリヴォルノとルッカのイタリア人開拓者を連れてアマゾン川とオリノコ川の間の地域に戻る用意ができていたが、この計画は潰れた。 実際にソーントンのガレオン船''サンタルチア・ブオナヴェンチュラ号''が1609年にイタリアに戻ったとき、トリニダード島とアマゾン川デルタの間の地域を探索した豊富な情報をもたらし、数人の先住民と熱帯のオウムを連れてきていた〔イタリア語) ">Mirabilia et Naturalia (イタリア語) 〕。 ソーントンがイタリア植民地の場所として想定した地域は現在のフランス領ギアナ(カイエンヌ市近く)であり、それから間もない1630年にフランスによって植民地化されることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イタリアによるアメリカ大陸の植民地化」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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