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伊土戦争(、 (トリポリの戦い)、)は、1911年9月から1912年10月の間にイタリア王国とオスマン帝国の間で戦われた戦争。戦争はイタリア王国軍の勝利に終わり、敗北したオスマン帝国からローザンヌ講和会議でトリポリタニア・フェザーン・キレナイカを獲得した。占領統治にあたってイタリア王国政府は三つの植民地州をリビア属州として一括的に統治する事とした(リビア保護領)。 戦争の過程でイタリア海軍によって東地中海のドデカネス諸島を占領して制海権を奪取していたが、これについてはオスマン側に返還された〔Treaty of Ouchy (1912), also known as the First Treaty of Lausanne 〕。だが対価として諸島でのイタリア海軍による拠点の建設など実質的な進駐が容認されていた。1923年、オスマン帝国崩壊に伴う第二次ローザンヌ会議において、ムスタファ・ケマルによるトルコ共和国はドデカネス諸島の完全な割譲に同意した〔Full text of the Treaty of Lausanne (1923) 〕。 第一次世界大戦直前に起きた諸戦争の一つとして扱われる場合が多いが、それらの中でもこの戦争は非常に大きな意味を持った。イタリア王国軍が陸海戦でオスマン帝国軍を圧倒する様子は、オスマン帝国の支配下から脱したばかりのバルカン半島諸国に大きな勇気を与えた。バルカンが結束すればオスマンに勝てるかも知れないという希望は、バルカン同盟の結成と第一次バルカン戦争を促すことになる。 軍事的にも伊土戦争は非常に大きな意味を持つ戦いとなった。1911年10月23日、イタリア陸軍航空隊は飛行船による前線偵察を行わせており、11月1日に捕捉したオスマン軍部隊に爆弾を投下した。これは世界で最初の「空軍による地上攻撃」として記録されている〔U.S. Centennial of Flight Commission: Aviation at the Start of the First World War 〕。 == 背景 == 北アフリカに対するイタリア王国とオスマン帝国の係争は、露土戦争終結後に開催された1878年のベルリン会議での議論に遡る事ができる。バルカン諸国のオスマン帝国からの解放が決定された同会議で、フランス共和国はイギリス帝国のキプロス占領を認める代わりに、モロッコ地方とチュニジア占領を認めさせた。これについてチュニジアに権益を持っていたイタリアが反対すると、フランスは「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と誘いをかけた。1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとチュニジアに関する協力協定が交わされた。しかしイタリア政府は然程トリポリタニアに興味を示さず、協定は宙に浮いたままになっていた。 時代が下って1900年代に入ると、イタリア国内の報道機関は盛んにトリポリタニアが豊かな土地であるという報道を行った。トリポリタニアは鉱物が豊富でよく灌漑されており、オスマン帝国軍は数千人しか駐屯していないと喧伝された。また現地の住民はオスマン帝国に敵対的であり、侵入は「散歩にすぎない」と宣伝された。経済的不況の中で民衆は植民地の拡大を求めるようになった。 諸外国の権益が絡む北アフリカへの軍事行動は大きな賭けであったが、ジョヴァンニ・ジョリッティ首相によって遠征は検討され始めた。左翼・右翼双方を取りまとめていたジョリッティは非戦主義のイタリア社会党を懐柔して、国内の反対派を押さえ込んだ。この時にあくまで植民地戦争反対を唱えた人物の一人が後のファシスト政権の独裁者ベニト・ムッソリーニであった。 1911年9月29日、イタリア王国はトリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府に対して提示した。オスマン帝国はイタリア王国に対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答した。イタリア王国はこれを満足できる回答ではないとして宣戦布告した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊土戦争」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Italo-Turkish War 」があります。 スポンサード リンク
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