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イタリア・ルネサンス年表では、主に「イタリア・ルネサンスの文化」に関する年表を示す。 == 1300年 - 1399年 == 1300年代(トレチェント Trecento) *1300年 - 教皇ボニファティウス8世がこの年を最初の「聖年」として祝福し、ローマを多くの巡礼者が訪れる。(それまで聖年というものはなかった) *1300年 - 『神曲』では、この年の聖金曜日、ダンテが人生の半ばで暗い森に迷い込み、地獄・煉獄・天国遍歴が始まる。 *1300年 - ダンテに先行する清新体の詩人で友人でもあったグイド・カヴァルカンティ死去。 *1301年 - 教皇派(ゲルフ)支配のフィレンツェで、白党(ビアンキ)政権が黒党(ネリ)に倒される。 *:白党に属していたダンテ、フィレンツェ市から追放され、以後流浪生活を送る。 *1301年 - ハレー彗星の出現が観測される。 *:ジョヴァンニ・ヴィッラーニはその年代記に記録し、ジョットはパドヴァの壁画「東方三博士の礼拝」にその様子を描く。 *1302年 - 教皇ボニファティウス8世の回勅「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」。 *1302年 - カルタベロッタの和約が結ばれる。 *:シチリアの晩祷事件(1282年)以来のシチリア領有をめぐるアラゴン家とアンジュー家の抗争が終わる。 *1302年 - ジョットの師であり、フィレンツェ派の遠祖でもあるチマブーエ死去。 *1302年 - 【フランス】国王フィリップ4世が三部会を召集。 *1302年 - 【フランドル】ブリュージュの朝課事件で、フランドル市民がフランスの支配に抵抗して一斉蜂起。 *:続く同年の金拍車の戦い(コルトレイクの戦い)でフランドルは最終的に独立を勝ち取る。 *1303年 - ローマ大学創建。 *1303年 - アナーニ事件で、教皇ボニファティウス8世がフィリップ4世の配下ギヨーム・ド・ノガレらに急襲される。 *:ボニファティウス8世は釈放されたが、屈辱を受けて病状が悪化し間もなく死去、後継はベネディクトゥス11世。 *1304年 - 教皇ベネディクトゥス11世死去、後継教皇の選出は翌年にもつれこむ(→1305年)。 *1305年 - フランス人のボルドー大司教ベルトラン・ド・ゴが選ばれ、教皇クレメンス5世として即位(→1308年) 。 *:フランスのリヨンで行われたこの教皇の戴冠式で初めて教皇冠(三重冠)が用いられる。 *1306年 - フランシスコ会修道士で「讃歌(ラウデ)」などの宗教詩で知られるヤコポーネ・ダ・トーディ死去。 *1307年 - 教皇クレメンス5世の命でノヴァーラ近郊のドルチーノ派の拠点を教皇軍が急襲。 *:異端とされた修道士ドルチーノと支持者は火刑に処される。 *1307年 - ダンテ『俗語論』。 *1308年 - 教皇庁のアヴィニョン捕囚(-1377年)。 *1308年 - 【ドイツ】後期スコラ哲学を代表する実在論者ドゥンス・スコトゥスがケルンにて死去。 *1308年 - ローマ派のピエトロ・カヴァリーニによりナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会壁画完成。 *1308年 - ペルージャ大学創建。 *1309年 - 聖ヨハネ騎士団が東ローマ帝国領ロドス島を占領。 *:これ以前の騎士団の根拠地はキプロス島、以後この騎士団はロドス騎士団とも呼ばれる(-1522年)。 *1310年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征(→1312年)。 *1310年 - ヴェネツィアでバイアモンテ・ティエポロ(三代前の元首ロレンツォ・ティエポロの孫)らによるクーデターが起こる。 *:元首ピエトロ・グラデニーゴの改革(1297年)に反対するクーデタだったが、グラデニーゴが先手を打って鎮圧する。 *:以後ヴェネツィアの政治は寡頭体制に移行(議員世襲制(1323年)、十人委員会の常設(1335年))。 *1310年 - フィレンツェ派の祖であるジョット、パドヴァの「スクロヴェーニ礼拝堂壁画」完成。 *1310年 - ジョヴァンニ・ピサーノ、ピサ大聖堂説教壇の彫刻完成(1302年 - )。 *1310年 - ディーノ・コンパーニがフィレンツェの『年代記』を執筆( - 1312年)。 *1311年 - ヴィスコンティ家のマッテオ1世が神聖ローマ皇帝代理としてミラノの覇権を握る。 *:デッラ・トッレ家(トッリアーニ家)が没落し、以後ヴィスコンティ家が事実上のミラノの僭主を世襲する。 *1311年 - シエナ派の祖であるドゥッチョ、シエナ大聖堂「マエスタ(荘厳の聖母)」完成。 *1311年 - ヴィエンヌ公会議開催、翌1312年この会議でテンプル騎士団の解散を正式決定。 *1312年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世が100年ぶりにローマで戴冠式を行う(→1313年)。 *1312年 - マラテスタ2世・マラテスタが最初のリミニの僭主となり、マラテスタ家の支配始まる( - 1528年)。 *1312年 - ジェノヴァ出身のランチェロット・マロチェロがカナリア諸島に到達。 *1313年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世、シエナにて急逝。 *:この皇帝に私淑していたダンテは『帝政論』を捧げる。またこの死去に伴い、ダンテのフィレンツェ帰還は絶望的になる。 *1314年 - 教皇クレメンス5世が死去、以後2年間教皇座は空位(→1316年)。 *1314年 - アルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、フィレンツェのヴェッキオ宮殿(共和国政庁舎)完成(1299年 - )。 *1314年 - 【北アフリカ】哲学者ライムンドゥス・ルルスがアルジェリアのベジャイアにてイスラム教徒の投石で負傷する。 *:この負傷によりジェノヴァ商人に救出されるも、翌1315年には落ち延びた故郷マヨルカ島のパルマで死去。 *1315年 - ティーノ・ディ・カマイーノによりピサに設置された神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の墓碑完成。 *1315年 - 『エケリニス』を著したパドヴァのムッサート、桂冠詩人になる *1315年 - 【スイス】モルガルテンの戦いで、スイス原初同盟(ウリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデン)がハプスブルク家を撃退 *1315年頃 - パドヴァ大学医学教授ピエトロ・ダバノが宗教裁判中に死去、死体は火刑に処される。 *1316年 - 2年間の空位の後、教皇ヨハネス22世が即位。 *1317年 - シモーネ・マルティーニ「ロベルト1世に王冠を授けるトロサの聖ルドヴィコ(トゥールーズの聖ルイ)」。 *1318年 - ヤコポ・ダ・カッラーラがパドヴァ領主に選ばれ、以後1405年までカッラーラ家がパドヴァを掌握。 *1320年 - ダンテ『水陸論』。 *1321年 - ダンテ、亡命先のラヴェンナにて死去(1265年 - )。 *:ダンテは亡くなるこの年までに代表作『神曲』を完成させる(1304年 - )。 *1321年 - フィレンツェ大学創建。 *1323年 - 教皇ヨハネス22世の回勅「クム・インテル・ノンヌッロス」。 *:教皇はフランシスコ会の「清貧論争」に介入し、フランシスコ会厳格派(聖霊派)を断罪。 *1323年 - 教皇ヨハネス22世がトマス・アクィナスを列聖する。 *1323年頃 - 【フランス】ベルナール・ギー『異端審問の実務』。 *1324年 - 旅行家マルコ・ポーロ死去。 *1325年 - アルトパーショの戦いで、ルッカの傭兵隊長カストルッチョ・カストラカーニがフィレンツェ軍に勝利。 *:この敗北で危機克服のためフィレンツェは、ナポリ王ロベルト1世の息子カラブリア公カルロを、僭主として迎え入れる。 *1325年 - パドヴァのマルシリウス『平和の擁護者』。 *1327年 - ルッカ公国成立。 *1327年 - フィレンツェで天文学者チェッコ・ダスコリが異端の罪で火刑に処せられる。 *1327年 - アヴィニョンの聖クララ教会でペトラルカとラウラの運命的な出会い、詩人は『カンツォニエーレ』を書き始める。 *1328年 - ローマにて神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の戴冠式。 *:皇帝はアヴィニョン教皇ヨハネス22世を廃位するため、対立教皇ニコラウス5世を即位させる( - 1330年)。 *:戴冠式を取り仕切ったパドヴァのマルシリウスはローマの教皇代理に任命される。 *:この皇帝の下に哲学者ウィリアム・オッカム、ジャンダンのヨハネス、フランシスコ会総長チェゼーナのミカエルらが結集。 *1328年 - マントヴァのボナコルシ家が倒され、ゴンザーガ家が権力を掌握。 *1328年頃 - 【ドイツ】神学者・神秘主義者エックハルト死去。 *1330年 - タッデオ・ガッディによるサンタ・クローチェ聖堂壁画「羊飼いへの天使の知らせ」完成(1328年 - )。 *1330年頃 - ヤコポ・デル・カセンティーノ「カニョーラ三連祭壇」(ウフィツィ美術館蔵)はこの頃のものか(1320年頃 - )。 *1331年 - ドミニコ会士のポルデノーネのオドリック死去。 *:インドや中国で宣教活動を行うとともに各地域の記録を残し、マンデヴィル『東方旅行記』(→1371年)にも影響を与える。 *1333年 - シモーネ・マルティーニ「受胎告知」(ウフィツィ美術館蔵)。 *1333年 - フィレンツェのアルノ川の氾濫でヴェッキオ橋が流される(→1345年)。 *1334年 - 教皇ヨハネス22世死去、教皇ベネディクトゥス12世即位。 *1334年 - ジョットがフィレンツェ大聖堂の「ジョットの鐘楼」建設に着手( - 1387年)。 *1336年 - ペトラルカがアヴィニョン近郊ヴァントゥ山の登山に挑み頂上まで登る(近代的登山の先駆け)。 *1337年 - ジョット死去。 *1337年 - 【イングランド・フランス】百年戦争始まる( - 1453年)。 *1338年 - 教皇ベネディクトゥス12世がフランシスコ会修道士ジョヴァンニ・デ・マリニョリをモンゴル帝国に派遣する。 *1338年 - 【ドイツ】 レンゼ選帝侯会議で、神聖ローマ皇帝選挙に教皇の許可は不要であると宣言。 *1338年頃 - ペトラルカ『アフリカ』。 *1339年 - シモン・ボッカネグラが初代ジェノヴァ元首に就任 *1339年 - アンブロージョ・ロレンツェッティ、シエナ市庁舎の平和の間壁画「善政と悪政の寓意と効果」完成。 *1339年 - カラブリアのバルラアムが、東ローマ帝国から東西教会合同のためアヴィニョン教皇庁へ送られる。 *:バルラアムは南イタリア人で、グレゴリオス・パラマスの静寂主義(ヘシュカスモス)を批判したことで名を挙げていた。 *:バルラアムはこの滞在中にペトラルカにギリシア語を教授する。 *1340年頃 - イタリア初の多声音楽文化・トレチェント音楽の最盛期。 *:代表者はゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ、ロレンツォ・ダ・フィレンツェ、フランチェスコ・ランディーニ。 *1340年頃 - シモーネ・マルティーニがアヴィニョンに招かれ教皇宮殿の壁画を描く(国際ゴシック様式)。 *1341年 - ペトラルカ、桂冠詩人になる。 *1342年 - フィレンツェのブオナッコルシ商会の経営破綻(「14世紀の経済危機」の始まり)。 *:この景気悪化で、その後1343年にペルッツィ商会とアッチャイオーリ商会、1346年にバルディ商会と連続して経営破綻。 *1342年 - 政治的混乱でフィレンツェが共和国体制を停止し、ナポリ王ロベルト1世の庇護を求める。 *:その結果ナポリ王配下のアテネ公ゴーティエ・ド・ブリエンヌに全権委任し、僭主として迎え入れる( - 1343年)。 *1343年 - ティレニア海に面するナポリ湾周辺で地震、この津波によりアマルフィの市街区のほとんどが壊滅する。 *1343年 - アテネ公が専制の不満から追放され、フィレンツェは自治を回復。 *1343年 - ピサ大学創建。 *1343年 - ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂祭壇装飾「パラ・ドーロ」が補修される。 *:元首アンドレア・ダンドロの命によるもので、パオロ・ヴェネツィアーノが祭壇装飾を担当している。 *1344年 - キプロス十字軍。 *1345年 - タッデオ・ガッディの設計でフィレンツェのヴェッキオ橋再建される(現在まで残存)。 *1345年 - 【フランス】パリのノートルダム大聖堂完成(1163年 - )。 *1347年 - ニコラ・ディ・リエンツォ、ローマで護民官となるが失脚(コーラ革命)。 *1347年 - ハンガリー王ラヨシュ1世がナポリ女王ジョヴァンナ1世を追放、ナポリ王位を要求し首都ナポリを占領(→1382年)。 *1347年 - 【クリミア】モンゴル人と交戦中のジェノヴァ領カッファでヨーロッパで最初のペスト罹患者が記録される。 *:黒海から地中海へのジェノヴァ人の航路をたどり、シチリア島のメッシーナで初めてイタリアにペストが上陸する。 *1348年 - 南アルプスのフリウリ地方を震源とする大地震発生(1月25日)。 *:ケルンテン地方のフィラッハで最大級の被害、ヴェネツィアからナポリまでイタリア半島全域で被害が及ぶ。 *:ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のバシリカ建築はこの歴史的地震に伴う崩壊の危機を乗り越える。 *1348年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世から教皇クレメンス6世にアヴィニョンが売却される。 *:以後、フランス革命で没収されるまでアヴィニョンは教皇領となる。 *1348年頃 - ヨーロッパにペスト(黒死病)大流行(→1347年)。 *:『カンツォニエーレ』にも歌われたペトラルカの恋人ラウラはこのペストで死去。 *:フィレンツェの銀行家であり年代記作家でもあったジョヴァンニ・ヴィッラーニもこのペストで死去。 *:フィレンツェ派の芸術家ではアンドレア・ピサーノ、ベルナルド・ダッディ、マーゾ・ディ・バンコがこのペストで死去。 *:シエナ派の芸術家ではピエトロ、アンブロージョのロレンツェッティ兄弟がこのペストで死去。 *:疫病を避けた人々の閑談から生まれたのがボッカッチョの『デカメロン』 (ペスト文学)。 *1348年 - 【ボヘミア】プラハ大学創建とプラハ市街の大改修始まる。神聖ローマ皇帝カール4世による。 *:プラハを根拠地としたカール4世は、すでにプラハに大司教座を設置し(1344年)て聖ヴィート大聖堂の改修に着手していた。 *:この改修のためフランス人アラスのマティアがアヴィニョン教皇宮殿から召喚され、プラハは国際ゴシックの中心地となる。 *1349年 - 教皇クレメンス6世が鞭打ち苦行者(フラゲラント)を非難し禁圧する回勅を布告。 *1349年 - 【ドイツ】後期スコラ哲学を代表する唯名論者ウィリアム・オッカムがミュンヘンにて死去。 *1350年 - アヴィニョンの教皇インノケンティウス6世に委任され、枢機卿アルボルノスが教皇代理となる( - 1357年)。 *:元スペイン軍人だったアルボルノスは、教皇不在で僭主たちが蚕食していた教皇領を平定する。 *1350年頃 - 女性神秘家のスウェーデンのビルギッタがローマに定住、以後亡くなるまでローマで過ごす( - 1373年)。 *1350年頃 - 【フランス】「ジャン2世善良王の肖像」(ルーブル美術館蔵、アルプス以北の最古期の個人肖像画)。 *1351年 - ペトラルカ『凱旋』に着手( - 1374年)。 *1352年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世が亡命先のフランスからナポリに帰還(→1347年)。 *1353年 - サン・ジミニャーノがフィレンツェに占領され、対シエナの前線基地になる。 *1353年頃- ボッカッチョが『デカメロン』を完成させる。 *1354年 - 神聖ローマ皇帝カール4世のイタリア遠征、翌1355年にローマで戴冠式を行う。 *1354年 - ニコラ・ディ・リエンツォが教皇インノケンティウス6世に許され、イタリアでアルボルノス枢機卿と合流。 *:やがてアルボルノスと別れローマに帰還するも、ローマでの独裁を不満に思った市民の反乱で殺される。 *1355年 - ヴェネツィアで元首マリーノ・ファリエロがクーデタを起こすも失敗し、処刑される。 *1355年頃 - ブオナミーコ・ブファルマッコによるピサ・カンポサント連作フレスコ画「死の勝利」。 *1356年 - 【ドイツ】ニュルンベルクとメッツの帝国議会において神聖ローマ皇帝カール4世が金印勅書を発布。 *1357年 - 枢機卿アルボルノスが一時教皇代理を解任される。 *:その直後、彼の指揮でファーノで議会が開かれ、教皇への服従・各領地の自治などが決められる(ファーノ憲章)。 *1358年 - 枢機卿アルボルノスが再び教皇代理となり教皇領の回復に着手( - 1364年)。 *1358年 - ヴェネツィアの支配を脱し、ドゥブロヴニクがラグーザ共和国として自立。 *1358年 - 【オーストリア】ルドルフ4世(建設公)がオーストリア大公を自称する( - 1365年)。 *:ハプスブルク家を大公に格上げし、シュテファン大聖堂(1359年完成)、ウィーン大学(1365年創設)の建設を推進。 *1358年 - 【フランス】パリでのエティエンヌ・マルセルの反乱、フランス東北部でのジャックリーの乱。 *1358年 - 【オーストリア】ウィーンにてスコラ哲学者であるリミニのグレゴリウス死去。 *1358年 - 【フランス】「ビュリダンのロバ」や「インペトゥス理論」で知られるスコラ哲学者ジャン・ビュリダン死去。 *1359年 - レオンツィオ・ピラートがボッカッチョに招かれ、フィレンツェ大学でギリシア語講座を開設。 *1359年 - オルカーニャによるオルサンミケーレ教会のタベルナクル(天蓋付き壁龕)。 *1359年 - 【ドイツ】フライブルクのフランシスコ会修道士ベルトルト・シュヴァルツが黒色火薬を発明か。 *1360年頃 - 【ドイツ】「レットゲンのピエタ(ボン・ライン州立美術館蔵)」が作られる。 *1361年 - 教皇不在のローマでラテラノ宮殿が炎上、1307年の大火に続く不祥事で宮殿の荒廃が進む。 *1361年 - パヴィア大学創建。 *1361年 - 盲目の音楽家フランチェスコ・ランディーニがフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストとして雇われる。 *1361年頃 - 2度目のペスト大流行(ペスティス・セクンダあるいはペスティス・プエロルム(子供のペスト))(→1348年頃)。 *1362年 - 教皇インノケンティウス6世死去、教皇ウルバヌス5世即位 *1364年 - アルボルノスが教皇代理を解任され引退、引退後はオルヴィエートやナルニなどイタリア各地に要塞を建造。 *1364年 - カッシーナの戦いで、フィレンツェがピサに勝利。 *1365年 - サヴォイア伯十字軍。 *1366年 - ペトラルカが教皇ウルバヌス5世宛てにローマへの帰還を勧める書簡を送る(『老年書簡集』所収)。 *1367年 - 教皇ウルバヌス5世がアヴィニョンからローマへ帰還する。 *:しかしこの滞在は一時的なものであり、1370年には教皇は再びアヴィニョンに戻り、同年その地で死す。 *1367年 - 教皇のローマ入りを目前にヴィテルボにて枢機卿アルボルノス死去。 *:その死を悼んで音楽家ヨハンネス・チコーニア(父)がバッラータ「涙を浮かべて」を捧げる 。 *1368年 - アンドレア・ダ・フィレンツェによるフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会壁画「教会の伝道と勝利」完成(1366年 - ) *1368年頃 - イングランドの詩人チョーサーがイタリアに渡り、ペトラルカと交友関係を結ぶ。 *:チョーサーはペトラルカの影響からイタリア式十四行詩ソネットをイギリス文学に導入し「英詩の父」と呼ばれる。 *1369年 - 【ブルゴーニュ】ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公とフランドル女伯マルグリット3世の結婚。 *:この結婚により1384年には夫妻はブルゴーニュとフランドルの支配権を獲得、ここが「北方ルネサンス」の舞台となる。 *1369年頃 - 3度目のペスト大流行(ペスティス・テルティア)(→1348年頃) 。 *1370年 - 教皇ウルバヌス5世死去(→1367年)、アヴィニョンにて教皇グレゴリウス11世即位。 *1370年 - 東ローマ帝国皇帝ヨハネス5世がイタリア訪問中、負債の問題でヴェネツィアにて拘束される。 *:ヴェネツィア元首アンドレア・コンタリーニは多額の身代金を受け取ることで、翌1371年ヨハネス5世を釈放。 *1371年 - 【フランス】ジャン・ド・マンデヴィル『東方旅行記』の最古の写本。 *1372年 - ピサの斜塔完成(1173年 - )。 *1373年 - 女性神秘家のスウェーデンのビルギッタがローマで死去(1391年列聖)。 *:ローマでビルギッタとともに暮らしていた娘のカタリナは遺骨をスウェーデンに持ち帰り、ヴァドステーナ修道院に埋葬する。 *1374年 - ペトラルカ死去。 *1375年 - 八聖人戦争で、フィレンツェとローマ教皇庁が戦う( - 1378年)。 *1375年 - ボッカッチョ死去。 *1376年 - ドミニコ会修道女シエナのカタリナが教皇グレゴリウス11世へローマへの帰還を促す(→1377年)。 *1376年 - 【イングランド】ジョン・ウィクリフが『俗権論』を執筆し、ローマ教皇の権威と権力を否定。 *:以後その主張はロラード派を生み出し、1381年のワット・タイラーの乱の指導者ジョン・ボールにも影響する。 *1377年 - 教皇グレゴリウス11世のローマ帰還、教皇庁のアヴィニョン捕囚終わる(1308年 - )。 *1377年 - チェゼーナの大虐殺。 *:枢機卿ロベール・ド・ジュネーヴ(後の対立教皇クレメンス7世)の指示でジョン・ホークウッドの部隊が実施。 *:この時期、イングランド人ホークウッドなど傭兵隊長(コンドッティエーレ)が外国人部隊を指揮しイタリア各地を蹂躙。 *1377年 - アルベリコ・ダ・バルビアーノがイタリア人だけの傭兵部隊「サン・ジョルジョ軍団」を結成。 *1377年 - 【フランス】アルス・ノーヴァの代表者でありノートルダム・ミサ曲を手がけたギヨーム・ド・マショー死去。 *1377年頃 - 【イングランド】ウィリアム・ラングランド『農夫ピアズの夢』。 *1378年 - 教皇グレゴリウス11世死去、その後の教皇選挙(コンクラーヴェ)が紛糾。 *:教会大分裂が始まり( - 1417年)、ローマ派の教皇ウルバヌス6世と、アヴィニョン派の教皇クレメンス7世が対立。 *1378年 - フィレンツェでチョンピの乱起こる( - 1382年)。 *:サルヴェストロ・デ・メディチが「正義の旗手」に選ばれ、一時的に毛織物業労働者など下層民衆の英雄に祭り上げられる。 *1378年 - チョーサーが密命を帯びてイタリアに渡る、ミラノのヴィスコンティ家と傭兵隊長ジョン・ホークウッドと接触したか。 *1379年 - アルティキエーロによるパドヴァのサンタントニオ大聖堂のフレスコ壁画完成。 *1380年 - シエナのカタリナ死去(1461年列聖)、残された多くの書簡は初期トスカーナ文学を代表する。 *1381年 - キオッジャの戦いでヴェネツィアがジェノヴァに勝利して海上覇権を握る(1379年 - )。 *1382年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世が又従弟のカルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺される *:カルロに暗殺を命じたのはハンガリー王ラヨシュ1世、カルロはカルロ3世としてナポリ王位に就く。 *1382年 - 【フランス】数学者・天文学者であり、国王シャルル5世の貨幣改革の理論家として活躍したニコル・オレーム死去。 *1385年 - チョンピの乱が鎮圧され、サルヴェストロ・デ・メディチやミケーレ・ディ・ランドがフィレンツェから追放される(→1378年)。 *1385年 - ミラノのジャン・ガレアッツォが叔父のベルナボを失脚させ、ミラノの完全な支配権を手中に収める。 *:以後ミラノによる北イタリア統一が進む(1387年にヴェローナ、1399年にピサとシエナ、1402年にボローニャとペルージア)。 *1385年 - ナポリ王カルロ3世がラヨシュ1世亡き後のハンガリー王に迎え入れられる(カーロイ2世)。 *:しかし翌1386年にカルロ3世は、反対派であるラヨシュ1世未亡人エリザベタ・コトロマニッチに暗殺される。 *1386年 - ミラノ大聖堂の建設開始( - 1813年)。 *1386年 - 【ポーランド】リトアニア大公ヤギェウォ(ヨガイラ)とポーランド女王ヤドヴィガの結婚によるヤギェウォ朝の成立。 *1386年 - 【ドイツ】ハイデルベルク大学創建。 *1387年頃 - 【イングランド】チョーサー『カンタベリー物語』執筆開始( - 1400年、未完)。 *1388年 - アッチャイオーリ家のネリオ1世がアテネ公となる。 *:アッチャイオーリ家はフィレンツェの名家で、以後オスマン帝国に支配されるまで同家がアテネ公位を継承( - 1458年)。 *1389年 - ローマ派の教皇ウルバヌス6世死去、後継はボニファティウス9世。 *:ボニファティウス9世は歴代教皇で唯一、二度の聖年(1390年と1400年)を行う。またこの際に贖宥状を初めて発行した。 *1380年代 - アーニョロ・ガッディがフィレンツェ・サンタ・クローチェ聖堂の聖歌隊席のフレスコ画を完成させる。 *1390年 - 傭兵隊長のジョン・ホークウッドがフィレンツェの総司令官となる(→1377年)。 *:ミラノのジャン・ガレアッツォの行軍を食い止め、フィレンツェは独立を死守(→1436年)。 *1391年 - フェラーラ大学創建。 *1391年 - 教皇庁付歌手でもあったアントニオ・ザッカーラ・ダ・テーラモが、教皇ボニファティウス9世の秘書官となる。 *1391年頃 - コルッチョ・サルターティ『ヘラクレスの功業について』。 *1394年 - アヴィニョン派の教皇クレメンス7世死去、後継はベネディクトゥス13世。 *1395年 - ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォがミラノ公になりミラノ公国成立(→1385年)。 *1395年 - サケッティ『短編小説三百篇』。 *1395年頃 - 【イングランド】ウィルトンの二連祭壇画(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)( - 1399年)。 *1396年 - 【ブルガリア】ニコポリスの戦い。 *:ヴェネツィア・ジェノヴァを含むキリスト教諸国軍がオスマン帝国軍に大敗、東ローマ帝国の危機(→1399年)。 *1396年 - ギリシア人マヌエル・クリュソロラスがフィレンツェに招聘される。 *:招聘したのはコルッチョ・サルターティで、これによりフィレンツェにギリシア語講座が開設される(1397年 - 1400年)。 *1397年 - ジョヴァンニ・ディ・ビッチが「ローマ商会」本店を出身地のフィレンツェに移す(事実上のメディチ銀行の発足)。 *1397年 - 【デンマーク・ノルウェー・スウェーデン】北欧三国でカルマル同盟が結ばれる( - 1523年)。 *:この実質的な同君連合の中心はデンマーク王母マルグレーテ1世。 *1398年 - フランスがアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世の支持を撤回。 *:ジョーフレ・ブシコーの率いる軍がアヴィニョンの教皇宮殿を包囲し、教皇の篭城は1403年まで5年間続く。 *1399年 - 東ローマ皇帝マヌエル2世、オスマン帝国に対する救援依頼のためイタリアを含む西欧各地を歴訪( - 1402年)。 *:皇帝マヌエル2世は、パレオロゴス朝ルネサンスと呼ばれる最末期のビザンティン文化を代表する文人でもある。 *1399年 - 【ブルゴーニュ】メルキオール・ブルーデルラム「ディジョンの祭壇画」(旧シャンモル修道院蔵)(1393年 - )。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イタリア・ルネサンス年表」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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