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イタリヤード : ウィキペディア日本語版
イタリヤード

イタリヤード株式会社()は婦人服を主体に取り扱うアパレル会社。オリジナルブランドのレディースカジュアル衣料を中心に、アクセサリーの輸入販売を手がけていた。
独自のフランチャイズを作り上げて急成長し、大証(現在の東証)2部へ上場したが、焦げ付きや経営不振などの事由から、2002年平成14年)に自己破産した〔四国新聞社2002年1月22日 京都の婦人服卸が破産/大証2部のイタリヤード 〕。
== 概要 ==

=== 順調な滑り出しから権限委譲まで ===
1976年昭和51年)に、婦人服地メーカーロンシャン1998年9月に倒産(政岡2008 p.89)。2000年に繊維商社外与の傘下で同名の会社が設立された。〕〔日経ビジネス p.205〕に勤めていた北村陽次郎が、「自己流の考え方で会社を経営したい。売る苦労をするより、市場の求めるものを探すほうが楽しい」との思いを抱き〔北村曰く「(妻と)2人で百貨店に行き、婦人服売り場で『ここに君の欲しい商品があるか』と聞いたら『ない』というので、『それなら僕は売れる商品をつくりたい。だから(会社を)やめる』と宣言したのです」(日本経済新聞1996年8月7日付朝刊、畑村2006 p.222)。〕、27歳で脱サラして創業した〔政岡2008 p.89〕。「イタリアの陽気でいい加減なイメージが自分にぴったり」として「イタリヤード」と命名〔緒方1995 p.20〕。河原町二条の雑居ビル3階に15坪の事務所を借りて3名でスタートし、半年後にロンシャンのデザイナーだった北村の妻が参加〔「北村夫妻と社員2名の4名で創業」という記述もある(緒方1995 p.20)(渡辺1996 p.23)。〕〔畑村2006 p.222〕、草創期には彼女のデザインした商品を北村が百貨店や婦人服専門店に売り歩いたという〔〔日本経済新聞1996年8月7日夕刊〕。初年度の売上は1億2,000万円だった〔緒方1995 p.21〕。
1980年(昭和55年)に発売開始した「フロリダキーズ」を皮切りに、約6年間で主力となるオリジナルブランドを逐次投入〔専務である妻が企画した「フロリダキーズ」(1980年6月)、「ホワイトイタリヤード」(1982年10月)、「アンドレルチアーノ」(1983年4月)、「ブランヌーボー」(1986年10月)の4点(畑村2006 p.227)。倒産の直前まで同社の屋台骨を支えるブランドとなった(政岡2008 p.91)。〕。原色を多用したイタリア調のカジュアルデザインながら〔畑村2006 p.223〕、海外品に比べて求めやすい価格で提供され人気を博した〔政岡2008 p.93〕。加えて、東京、福岡、大阪に相次いで拠点オフィスを開設し〔緒方1995 p.226〕、北村自身が芸能事務所テレビ局を足しげく通いつめて、芸能人局アナに衣装を提供した。これが若い女性の購買意欲を刺激し、創業10年目の1986年(昭和61年)7月期には売上を47億円に伸ばした〔日本経済新聞1993年8月30日朝刊〕。
「ワンマン経営と悪口を言われることがいやだった」〔「イタリヤードは北村でもっている」「あの会社は北村のワンマンカンパニーだ」という陰口がよく北村の耳に入ったという(渡辺1996 p.29)。〕〔緒方1995 p.85〕北村は、創業8年目前後から権限委譲を始め、創業10周年を迎えた1987年(昭和62年)7月期より、商品企画から営業、商品管理までをすべて従業員任せにした〔。それまで「自分で決め、自分でモノをつくってやってきた」、つまり売れる商品を自ら企画し、予想のおよそ7掛けの数量で加工を指図し、それが売れたら即時に追加注文できる体制〔「もう少し売れると思いますから」と、メーカーに素材を残してもらっていた(渡辺1996 pp.62-63)。〕をつくってきた北村のやり方〔緒方1995 p.83〕と異なり、得意先小売店の意向に沿った商品を企画加工し、それを展示会で販売するだけの、いわば権限を委譲された従業員自身は何らリスクを取らない方式に置き換わった。いきおい商品は多品種少量生産となり、製造コストの上昇を引き起こす一方で、売れ残りや返品が想定以上に積み上がる結果を招いた〔当時のアパレルメーカーは年2回、春夏物と秋冬物の商品展示会を行い、得意先である小売店が見本商品に触れて発注する流れになっていた。しかし、売れ残った場合には無条件に返品される慣習があり、小売店の発注ミスの責任をアパレルメーカーが負わされていた(緒方1995 pp.21-22)(政岡2008 p.94)。〕〔緒方1995 p.41〕。北村が社長として唯一担当する投資においても、従業員の提案で渋谷に開業したレストランの採算がとれず、本業の足を引っ張ることとなった〔家賃と仕入分程度の売上しかできなかった。北村が訪れた際には、墓場へ足を踏み入れたと思われるほどに活気が感じられない店内で、ウェイトレスが注文を取りに来ず、店長は営業時間中にさぼってどこかへ行く有様だった(渡辺1996 pp.32-36)。〕〔政岡2008 p.94〕。その結果、1987年7月期は創業以来初の経常赤字に転落。翌1988年7月期と2期連続で赤字が続き〔政岡2008 p.90〕、北村をして「明日にも倒産」〔日本経済新聞1996年8月7日夕刊〕と表現できるほど、資金繰りに窮する事態に陥った〔この時期に、会社草創期に資本提供してくれた大株主が「自分の経営する企業の傘下に入らないか」と誘ってきたという。北村はこの申し出を断るため、母親の家を担保に入れ2,000万円を銀行から借り入れて、大株主の保有する株式を買い取った(渡辺1996 pp.68-70)。〕〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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