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イディオム・ネウトラル(Idiom Neutral)は、サンクトペテルブルクの技術者ヴァルデマール・ローゼンベルガーの指揮の下、普遍言語国際学会(''Akademi Internasional de Lingu Universal'')により1902年に出版された国際補助語である。 == 歴史 == 1887年八月、ミュンヘンにおける会議で''Kadem bevünetik volapüka''(ヴォラピュク国際学会)という名前の下創設された学会は、国際補助語ヴォラピュクを保護・完成させ始めた。1892年に学会の指導者になったローゼンベルガーの下、その集団はヴォラピュクの文法と語彙をかなり変化させはじめた。語彙は、西ヨーロッパの言語で使われるものにより密接に類似した語へほぼ完全に置き換えられ、西ヨーロッパ人によく知られていない文法的形式のいくつかは放棄された。その変化は、事実上新しい言語の創造に帰着したと理解されて、それは(「中立普遍の方言」や「中立普遍の言語」を意味する)「イディオム・ネウトラル」と名づけられた。1898年、学会の名前は''Akademi Internasional de Lingu Universal''に変更され、学会の回覧はその年から新しい言語で書かれた。 文法概要を含むイディオム・ネウトラルの辞書は、1902年と1903年にいくつかのヨーロッパ言語で出版された。 時々英語を話す作家により「中立」または「中立言語」として示されるその言語は、そのとき国際語ファンの間の関心を起こした。ローゼンベルガーは、「プログレス」(Progres)と呼ばれる言語で定期刊行物を出版した。1907年、イディオム・ネウトラルは、国際補助語を選定するためパリで集まった学者たちの委員会により考慮されたプロジェクトの一つだった。(委員会が実際に決定したことは議論された。詳細はイド語とその外部リンク参照) 1908年、イディオム・ネウトラルを作った学会は、イタリア人数学者ジュゼッペ・ペアノに開発されたラテン語の単純化形式である無活用ラテン語に賛成してイディムネウトラルを放棄することを実質的に選択した。ペアノは、その学会の指導者に任命され、その名前は"Academia pro Interlingua"に変更された。(ペアノの言語はときどき''インターリングア''(''Interlingua'')と呼ばれたが、国際補助語協会(IALA)により1951年に発表されたより知られたインターリングアと混同してはならない。) 1912年、ローゼンベルガーは、レフォルム=ネウトラル(Reform-Neutral)と呼ばれるイディオムネウトラルの改訂版を出版した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イディオム・ネウトラル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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