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ムハンマド・アル=イドリースィー(アラビア語: أبو عبد الله محمد الإدريسي; 、Abū 'Abd Allāh Muhammad al-Idrīsī、イドリーシー。1099年/1100年?-1165年/1166年/1180年?)は、中世に活躍したアラブ人の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界地図を作成した。 ==生涯== ムラービト朝治世下にあったアフリカ北部のセウタ(現在はモロッコ内スペイン領の飛び地)で生まれ、コルドバで勉学に勤しみ、アンダルスや北アフリカの各地を旅した後にルッジェーロ2世統治時のシチリアに招かれた。彼の死地は生誕地でもあったセウタだと言われている。今日まで伝わる学問的な業績とは裏腹に、イドリースィー個人の事績はキリスト教徒の側にもムスリムの側にもあまり伝わっておらず、正確な生没年すらわかっていない。例えば、ルッジェーロ2世の死後に息子のグリエルモ1世に仕えたのかについてさえ、諸説あって明確にわかってはいない。 彼は「イドリースィー」というクンヤ(出身名)が示す通り、マグリブの地方政権であったイドリース朝(789年 - 985年)の末裔のひとりで、すなわち預言者ムハンマドの子孫であるためアル=シャリーフ・アル=イドリースィー al-Sharīf al-Idrīsī とも呼ばれる(イドリース朝は正統カリフ・アリーとムハンマドの娘ファーティマとの息子ハサンの曾孫であるイドリースを始祖とする。またシャリーフとはサイイドと同じく預言者ムハンマドの子孫を指す尊称のひとつ)。 イドリースィーがアジア・アフリカ・ヨーロッパ域を網羅する初めて正確な世界地図『lawh al-tarsim』(「線描画の板」の意)を描いたのは、1154年、ルッジェーロ2世の宮廷で18年間に渡って作成した図解と説明を纏めたものだった。彼の地図は『Tabula Rogeriana(タブラ・ロジェリアーナ)』、解説本は『Geografia』と呼ばれ、これらを合わせて『 نزهة المشتاق في اختراق الآفاق Nuzhat al-mushtāq fī ikhtirāq al-āfāq』(「世界横断を望むものの慰みの書」〔)という名がルッジェーロ2世によってつけられた。ただ、イドリースィー本人はこれを『Kitāb Rujār』または『Kitāb al-Rujārī』(「ルッジェーロの書」の意)と呼んだ。 『Nuzhat al-mushtāq fī ikhtirāq al-āfāq』はイドリースィー自身が踏破し調査を行なった地域を70枚以上の地図上に説明し、当時の地政学および社会学的知見についての概説を加えている。一方『Kharitat al-`alam al-ma`mour min al-ard』(「Map of the inhabited regions of the earth」)では地球を赤道から緯度23度までの領域を1番目とし、続けて合計7つに分けている。この7番目に当たる北緯54度から63度までは寒冷と降雪を理由に居住不可能な領域と定めている。また、400kgの純銀を用い地球全体を網羅する地図を作成したと言われている。そこには7つの大陸と通商用の航路、湖や河川、主要な都市、平原や山が描写されていた。 1161年には過去の地図を拡充した『 كتاب الجامع لأشتات النبات Kitāb al-Jāmi'-li-Ashtāt al-Nabāt』〔 や『Rawḍ al-uns wa nuzhat al-nafs』(「The Gardens of Humanity and the Amusement of the Soul」、「人間性の庭と魂の楽園」の意)を作成した。本書は医薬を作る原料となる草木や鉱物が入手できるの場所を列記するなどイスラム教社会が持つ科学的知識を数多く反映していた〔が、これは写しを含めて全て失われている。既にイドリースィー本人は亡くなっていたと思われる、1192年にはこれの簡略版『Garden of Joys』(ただし通常は『Little Idrisi』と呼ばれる)が出版された。 イドリースィーは自らが立つ大地が球形であると堅い確信を持っていた。彼は、完全に平衡したものは水を流動させること無く一定の場所に止めるが、この世界では水が循環していると論述し、これを以って証明とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イドリースィー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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