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イノヴロツワフ : ウィキペディア日本語版
イノヴロツワフ

イノヴロツワフ()は、ポーランド北部の町。かつてはドイツ語ホーエンザルツァ (Hohensalza) とも呼ばれた。
2004年の国勢調査に基づく推計人口は7万7641人。1999年の行政区分の再編で、それまでのブィドゴシュチュ県からクヤヴィ=ポモージェ県に移った。ブィドゴシュチュの南東40kmに位置する工業都市で、岩塩とそれにともなう塩化物泉が知られる。県内では四番目に大きく、ポズナニトルンを結ぶ鉄道とホジュフグディニャを結ぶ鉄道がクロスする。
== 歴史 ==

1185年にノヴォ・ヴラディスラフ (Novo Wladislaw) として初めて歴史上に登場する。この命名にはヴワディスワフ1世ヘルマンをたたえたとの説と、ヴウォツワヴェクにちなんだとの説がある。事実、イノヴロツワフには洪水を逃れた多くのヴウォツワヴェク住民が入植した。1236年にユヴェニ・ヴラディスラヴィア (Juveni Wladislawia) と改称され、その2年後カシミール・コンラドヴィッツによって町制施行された。1466年から1772年まで、クヤヴィ北部を管轄するイノヴロツワフ県の県都であった。15世紀に周辺で岩塩坑が見つかると、町の発展は加速した。
1772年の第一次ポーランド分割で、イノヴロツワフはプロイセン王国のネッツェ州に編入された。ナポレオンのロシア遠征ではナポレオンの拠点になった。1815年のウィーン会議の結果、プロイセンのポーゼン州に組み入れられた。1872年に鉄道が開通し、1875年には温泉がオープン。1904年12月5日にホーエンザルツァ (Hohensalza) に改称され、1908年に通電した。
ヴェルサイユ条約により1920年1月10日、ポーランド第二共和国領となって地名もイノヴロツワフに戻された。高い失業率が1926年の労働者らと警官隊との衝突や、20人が死亡した1930年のハンガーストライキにつながった。1925年にポズナニ県から独立市に昇格したが、第二次世界大戦前夜の地方行政改革で大ポモージェに併合された。1939年9月11日に第4軍に占領され、イノヴロツワフはふたたびホーエンザルツァに改称、ポーゼン軍事区のもとにおかれた。それからナチス・ドイツのポーゼン帝国大管区を経て、終戦までヴァルテラント帝国大管区に支配された。占領初期には、ポーランド人の逮捕や処刑が猖獗を極めた(国内では「血の日曜日」として知られる)。1939年11月30日には、1000以上の家族が追放された。1940年から1945年まで、ポーランド人の再定住キャンプや英、仏、露の捕虜の収容所が置かれた。
1945年1月21日に赤軍が市街を解放し、地名もイノヴロツワフに再び戻った。ドイツ軍の空襲は、イノヴロツワフ駅が焼かれた1945年4月4日を最後に終わった。1950年からビドゴシュチ県に属していたが、1999年の行政区分再編でクヤヴィ=ポモージェ県になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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